右兵衛府 (うひょうえふ)
【概説】
律令制下における宮廷警備組織である五衛府(のちに六衛府)の一つ。左兵衛府とともに、天皇の直接の護衛や行幸の供奉(ぐぶ)を担った右側の軍事部門である。
律令官制における兵衛府の誕生と「左右」分離
右兵衛府の起源は、大宝律令(701年)において設置された「兵衛府(ひょうえふ)」にさかのぼる。当初は一つの組織であったが、奈良時代後期の天平宝字3年(759年)、藤原仲麻呂(恵美押勝)による官制改革の一環として「左右兵衛府」へと分割された。これにより、天皇直属の警護部隊としての機動性と組織力が高められることとなった。
この組織を構成する「兵衛」は、一般の百姓から徴発される衛士(えじ)とは異なり、主に地方豪族である郡司の子弟や、都の中下級貴族の次男・三男などから選抜された。彼らは武芸に秀でていただけでなく、将来の官僚候補としてのエリート層でもあり、宮廷奉仕を通じて中央の政治秩序に組み込まれていった。この点が、単なる警備兵ではない兵衛府の大きな歴史的特徴である。
右兵衛府の職掌と組織構造
右兵衛府は、左兵衛府とともに天皇の身辺警護を主たる任務とした。具体的には、内裏(御所)の巡検、天皇の移動である「行幸」の際の供奉や警備、さらには宮中の諸門(特に右側の区域)の開閉や出入管理を担当した。また、朝廷の重要な儀式においては、威儀を正して整列し、天皇の権威を誇示する役割も果たした。
組織のトップは四等官の長官である「右兵衛督(うひょうえのかみ)」(従五位上、のちに権限の拡大に伴い従四位下相当)であり、これを補佐する佐(すけ)、実務を統括する大尉(だいつい)・少尉(しょうつい)、書記官である大志(だいさ)・少志(しょうさ)らが配置された。さらに、兵衛たちの健康管理を行うための「医師」なども所属しており、高度に組織化された部隊として機能していた。
平安中期における六衛府体制への再編と形骸化
平安時代初期の弘仁2年(811年)、嵯峨天皇の治世において、従来の衛府は「左右近衛府」「左右兵衛府」「左右衛門府」の六衛府(ろくえふ)体制へと再編された。これにより右兵衛府の役割はより専門化されたが、平安時代中期以降、律令国家の変質(王朝国家体制への移行)に伴ってその実質的な軍事機能は徐々に形骸化していくこととなる。
治安維持の主導権が新設された検非違使(けびいし)へと移り、さらに地方で武装化した「武士」が独自の軍事力を持つようになると、右兵衛府は実戦部隊としての役目を終えた。しかし、その官職(「右兵衛督」や「右兵衛佐」など)は高位貴族の家格を示す名誉職として、あるいは後代には武士が朝廷からの公認(権威付け)を得るための「武家官位」(源頼朝が「右兵衛佐」に任じられ「佐殿(すけどの)」と呼ばれたのが代表例)として、形を変えて歴史の中に残り続けた。