職封 (しきふ)
【概説】
飛鳥時代後期から律令体制下において、太政大臣や大納言など政府の最高幹部層に支給された経済的給与。官位ではなく特定の「官職」に就いている期間に限定して支給される、職務連動型の食封(財源支給制度)である。
律令国家における給与体系と職封の位置づけ
飛鳥時代から奈良時代にかけて整備された律令制度のもとでは、中央の官僚(官人)に対して様々な給与制度が設けられた。その中核をなしたのが、特定の戸(封戸)を割り当て、そこから納められる租税の全部または一部を個人の収入とすることを認める食封(じきふ/へいふ)の制度である。
食封には、皇族の品位に対して支給される品封、個人の持つ位階に対して支給される位封、国家への功績を称えて支給される功封などがあった。これらに対して、職務と連動して支給されたのが職封である。職封は、官位ではなく「特定の官職(職掌)」に就いていること自体を給与の条件としており、その役職を退任・解任された場合には支給が停止されるという「在任中限定」の強い性格を持っていた。
支給対象と多大な経済的特権
職封の支給対象は、太政官の最高幹部である公卿、すなわち太政大臣、左右大臣、および大納言(後に新設された中納言なども含む)といった最高官職に限定されていた。大宝律令や養老律令の規定によると、太政大臣には3000戸、左右大臣には2000戸、大納言には800戸(のちに公卿の増員等に伴い削減・調整された)という極めて膨大な規模の封戸が支給された。
封戸の住民からは、本来であれば国家に納められるべき調(特産品)や庸(労役の代納物)のすべて、および租(田地にかかる米)の半分が受給者(封主)に直接徴収された。このため、最高幹部に就任することは、単に高い政治的地位を得るだけでなく、国家的な財源から巨万の富を個人および家門へと還流させることを意味していた。
職封の歴史的意義と律令制の変容
職封をはじめとする食封制度は、天武天皇期や持統天皇期の皇親政治から大宝律令の制定(701年)を経て、天皇を中心とする中央集権的な国家体制を経済的に裏付けるために機能した。旧来の氏族が持っていた部民や私有地(部曲など)を公地公民制によって一度国家に回収した上で、改めて官職に応じた報酬として国家が給与を再分配するという、官僚制的な統治システムを構築する上でのインセンティブとなったのである。
しかし、平安時代中期以降、班田収授法の途絶や戸籍制度の崩壊に伴い、戸を基準とする食封の徴収システムは次第に機能しなくなっていった。職封も名目化し、代わって特定の国からの税収を給与とする国宛(くに当て)や知行国制、さらには荘園制の発達などへと経済構造が変容していくこととなる。