ジュネーヴ軍縮会議
【概説】
1927年、アメリカのクーリッジ大統領の提唱により、スイスのジュネーヴで開催された海軍軍縮会議。ワシントン会議で制限が見送られた補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)の制限を目的としたが、イギリスとアメリカの対立が解けず、決裂に終わった。
ワシントン会議後の建艦競争と会議の背景
1921年から1922年にかけて開催されたワシントン会議において、ワシントン海軍軍縮条約が締結され、米・英・日・仏・伊の主力艦(戦艦・巡洋戦艦)および航空母艦の保有トン数と比率が制限された。しかし、巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などのいわゆる補助艦については、各国の利害が対立したため制限の対象から外されることとなった。
その結果、主要海軍国はワシントン条約の制限枠外である補助艦、特に排水量1万トン以下・備砲8インチ以下の「条約型巡洋艦(のちの重巡洋艦)」を中心とする新たな建艦競争へと突入した。このような建艦競争の再燃による財政負担の増大を懸念したアメリカ大統領カルビン・クーリッジは、補助艦の制限を目的とする新たな軍縮会議の開催を提唱したのである。
会議の開催と参加国の思惑
クーリッジ大統領の呼びかけに対し、日本とイギリスは応じたものの、フランスとイタリアは自国の安全保障上の理由などから参加を拒否した。そのため、1927年6月から開催された本会議は、米・英・日の三カ国のみで行われることとなった。日本からは全権として、朝鮮総督を務めた斎藤実(海軍大将)と、元外相の石井菊次郎が派遣された。
会議において、アメリカはワシントン条約の主力艦比率(米5:英5:日3)を補助艦にも適用し、保有「総トン数」に厳格な上限を設けることを主張した。一方、世界中に広大な植民地を抱えるイギリスは、長大なシーレーン(海上交通路)を保護する必要から、個艦の排水量を小さく抑える代わりに、多数の小型巡洋艦を保有することを強く要求した。
英米の対立と日本の調停工作
アメリカは、太平洋や大西洋での広範囲な作戦行動を想定し、航続距離が長く戦闘力が高い大型巡洋艦(重巡洋艦)の保有を重視していた。対してイギリスの要求は、大型巡洋艦の制限を強化し、自国の実情に合わせた小型巡洋艦の建造枠を拡大することであった。この「総トン数による制限(アメリカ)」と「個艦の規模縮小と多数保有(イギリス)」という、両国の海軍戦略の根本的な違いから、英米間の対立は深刻化した。
日本代表の斎藤実らは、自国の最重要目標である「対米7割の補助艦比率確保」を目指しつつ、会議を成立させるために決裂の危機にある英米間に立って妥協案を提示し、積極的な調停工作を行った。しかし、海洋覇権を争う英米両国は互いの主張を一歩も譲らず、日本の努力も実を結ぶことはなかった。
会議の決裂とロンドン海軍軍縮会議への影響
結局、イギリスとアメリカの対立は最後まで埋まらず、1927年8月、ジュネーヴ軍縮会議はいかなる条約も締結できないまま決裂した。この会議の失敗は、国際社会における利害調整の難しさを浮き彫りにするとともに、主要国間の補助艦建艦競争をさらに加速させる結果を招いた。
しかし、この決裂によって軍縮の機運が完全に失われたわけではなく、各国の国内における軍事費による財政的圧迫は依然として深刻な問題であり続けた。そのため、ジュネーヴで解決できなかった補助艦の制限問題は、3年後の1930年に開催されたロンドン海軍軍縮会議へと持ち越されることとなり、そこでようやく補助艦の保有制限に関する条約(ロンドン海軍軍縮条約)の妥結を見ることになるのである。