理研コンツェルン (りけんこんつぇるん)
1927〜1945年
【概説】
大正から昭和初期にかけて、理化学研究所(理研)の研究成果を企業化・事業化する過程で形成された新興財閥。三井・三菱などの既成財閥に対し、独自の科学技術の産業化を背景に急速な成長を遂げ、昭和期の新興コンツェルンの一翼を担った企業集団。
理化学研究所の財政再建と「科学主義工業」
1917年に設立された国内初の本格的な私立科学研究所である理化学研究所(理研)は、当初深刻な資金難に陥っていた。1921年に第3代所長に就任した大河内正敏は、研究成果を自ら工業化してその特許料や事業利益を研究費に還元するという、画期的な自給自足モデルを提唱した。大河内はこの理念を「科学主義工業」と呼び、ピストンリングや合成酒、陽画感光紙、ビタミンA(理研ビタミン)など、理研の発明品を次々と製品化していった。
新興コンツェルンの形成と戦後の解体
1927年の理化学工業株式会社の設立を皮切りに、研究成果を事業化する子会社が次々と設立され、これらは「理研産業団」または理研コンツェルンと呼ばれる巨大な企業集団へと発展した。最盛期には傘下企業が70社を超える規模に達した。日産や日窒などの他の新興財閥が軍部と結びついて満州国や朝鮮などの植民地へ進出したのに対し、理研は民間市場向けの消費財や精密機械、金属加工を中心とした技術主導型の経営を展開した点に特色がある。しかし、太平洋戦争の激化に伴い軍需生産への協力を余儀なくされ、敗戦後の連合国軍総司令部(GHQ)による財閥解体の対象となり、コンツェルンとしての歴史に幕を閉じた。