一身上の弁明 (いっしんじょうのべんめい)
1935年
【概説】
憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉が、貴族院本会議で行った弁明演説。自らの憲法学説である天皇機関説に対する右翼や軍部からの非難に対し、学問的立場からその正当性を理路整然と主張したもの。
天皇機関説排撃事件の勃発と「弁明」の背景
大正デモクラシー期を通じて日本の憲法学界の通説、さらには官僚登用試験の公認学説となっていた天皇機関説は、1930年代に入るとファシズムへの傾斜を強める軍部や右翼勢力から激しい標的とされるようになった。1935年(昭和10年)2月、貴族院本会議において、陸軍中将出身の議員であった菊池武夫が、美濃部達吉の著書を「緩慢なる謀叛」「学匪」などと激しい言葉で排撃し、政府に対して美濃部の処分と著書の発禁を迫った。この糾弾は、美濃部個人への攻撃に留まらず、議会政治や自由主義的な学問・思想を一掃しようとする政治的意図をはらんだ国体明徴運動へと発展していくこととなった。
論理的な反論と押し流される学問の自由
菊池らによる不当な誹謗中傷に対し、美濃部達吉が同年2月25日に貴族院で自ら壇上に立ち、反論を行ったのが「一身上の弁明」である。美濃部は、天皇を「国家という法人」の最高機関とする自説が、皇室の尊厳を損なうものではないばかりか、むしろ日本の近代立憲君主制を法理的に基礎付けるものであることを極めて冷静かつ論理的に説明した。しかし、感情的なナショナリズムと排外主義に傾く議会や世論の前で、この理知的な弁明は受け入れられず、かえってさらなる反発を招く結果となった。この演説の後、内閣は国体明徴声明を出して天皇機関説を公式に否定せざるを得なくなり、美濃部の著書は発禁処分に処され、自身も貴族院議員の辞職に追い込まれた。この一連の事件は、日本の学問の自由と民主主義が軍部の圧力によって崩壊していく象徴的な契機となった。