岡田啓介内閣 (おかだけいすけないかく)
【概説】
海軍大将の岡田啓介を首班として組閣された挙国一致内閣。天皇機関説問題において国体明徴声明の発出を余儀なくされるなど右翼や軍部の圧力に苦慮し、最終的に二・二六事件で首相自身が襲撃を受けて崩壊した。
挙国一致体制の継続と成立の背景
1934年(昭和9年)7月、帝人事件によって総辞職した斎藤実内閣の後を受けて成立した。当時の元老・西園寺公望は、満州事変以降の軍部の台頭を警戒しており、純然たる政党内閣を復活させることは時期尚早であると判断した。そのため、前内閣に引き続き、穏健派として知られていた海軍大将の岡田啓介を推挙し、軍部・官僚・政党勢力の均衡を図る「挙国一致内閣(中間内閣)」として組閣された。
政党の動向としては、立憲民政党が与党として入閣に応じたのに対し、衆議院の第一党であった立憲政友会は入閣を拒否して野党の立場をとった。政友会から個人として入閣した床次竹二郎らは党を除名されるなど、政党間の対立も根強く、岡田内閣の政権基盤は当初から強固なものとは言えなかった。
天皇機関説事件と国体明徴声明
岡田内閣の直面した最大の政治危機の一つが、1935年(昭和10年)に表面化した天皇機関説問題である。貴族院において、右翼的議員や在郷軍人会などが、美濃部達吉の提唱する「天皇機関説」を「国体に反する思想である」として激しく攻撃した(国体明徴運動)。野党であった政友会も、岡田内閣を倒す絶好の口実としてこれに同調した。
天皇機関説は、大日本帝国憲法下における議会政治や政党内閣制を理論的に裏付ける正統な憲法解釈として長年定着していたものであり、岡田首相自身も当初はこの排撃運動を静観し、美濃部を擁護する姿勢を見せていた。しかし、軍部や右翼からの圧力が激化すると内閣は屈服せざるを得なくなり、美濃部の著書を発禁処分にした上、二度にわたって「天皇機関説は国体に反する」とする国体明徴声明を発表した。このことは、政府自らが明治憲法の立憲主義的・近代的な解釈を公式に否定したことを意味し、以後の軍部の政治介入や独走を正当化する思想的土壌を作ってしまうという重大な歴史的結果をもたらした。
陸軍内の派閥抗争と相沢事件
岡田内閣の時期、陸軍内部では国家改造の主導権を巡って、青年将校を中心とする急進的な皇道派と、幕僚将校を中心とする統制的な統制派の対立が激化していた。1935年、林銑十郎陸軍大臣(統制派に近い)が、皇道派の重鎮であった真崎甚三郎教育総監を更迭すると、両派の対立は修復不可能な段階へと突入した。
同年8月、この更迭人事の中心人物と見なされていた統制派の永田鉄山軍務局長が、皇道派の相沢三郎中佐によって陸軍省内で斬殺されるという相沢事件が勃発した。軍の最高幹部が白昼暗殺されるという前代未聞の事態は、軍部の規律の著しい弛緩と、過激化する急進派の動向を世間に知らしめることとなった。
二・二六事件の勃発と内閣の終焉
相沢事件の公判が進む中、皇道派の青年将校たちはついに武力によるクーデター(昭和維新)を決行する。1936年(昭和11年)2月26日、およそ1500名の部隊を率いて首都の中枢を占拠する二・二六事件が勃発した。反乱軍は政府首脳や重臣を次々と襲撃し、内大臣の斎藤実、大蔵大臣の高橋是清らが暗殺された。
岡田首相自身も襲撃の標的となり、首相官邸が急襲された。しかし、容姿が似ていた義弟の松尾伝蔵大佐が身代わりとなって殺害され、岡田本人は女中部屋の押し入れなどに隠れて奇跡的に難を逃れ、翌日官邸からの脱出に成功した。首相は生存していたものの、数日間にわたり政府中枢が機能不全に陥った責任は重く、反乱部隊が鎮圧された後の3月9日、岡田内閣は総辞職した。
岡田内閣の崩壊後、後継の廣田弘毅内閣のもとで「軍部大臣現役武官制」が復活するなど、二・二六事件を契機として(事件を起こした皇道派は粛清されたものの)結果的に統制派を中心とする陸軍の発言力が飛躍的に増大し、日本は軍部ファシズムの体制へと決定的に傾斜していくこととなった。