有栖川宮熾仁親王 (ありすがわのみやたるひとしんのう)
【概説】
幕末から明治時代にかけて活躍した皇族、政治家、軍人。王政復古によって樹立された明治新政府の初代総裁に就任し、続く戊辰戦争では東征大総督として新政府軍の象徴的指導者を務めた人物である。
王政復古と新政府「総裁」への就任
有栖川宮熾仁親王は、幕末の緊迫する政局において重要な役割を果たした皇族である。もともと皇女和宮(親子内親王)との婚約が決まっていたが、江戸幕府による公武合体策の推進に伴い婚約を解消され、和宮が将軍徳川家茂に降嫁するという憂き目に遭った。この事件を契機に、熾仁親王は幕府に対して批判的な立場を取り、朝廷内の尊王攘夷派や倒幕派の公家・志士たちと急速に結びつきを強めていくこととなった。
1867(慶応3)年12月の王政復古の大号令によって明治新政府が樹立されると、従来の朝廷の官職に代わって「総裁」「議定」「参与」の三職が新設された。熾仁親王はその最高官職である初代総裁に就任した。この人事は、徳川氏を排除した新しい政権が天皇を中心とする正当なものであることを天下に示すための象徴的な措置であり、親王は新政府の政治的・権威的な頂点として機能することとなった。
東征大総督としての戊辰戦争と江戸無血開城
1868(明治元)年1月、旧幕府軍と新政府軍との間で鳥羽・伏見の戦いが発生し、戊辰戦争が勃発すると、熾仁親王は朝敵となった徳川慶喜を追討するための東征大総督に任命された。親王は錦の御旗を掲げて東海道を東進し、官軍(新政府軍)の総司令官として軍の士気を高める象徴となった。
実質的な軍事指揮は参謀の西郷隆盛らが執ったが、親王は大総督としてこれに全幅の信頼を寄せた。西郷と幕臣の勝海舟との会談によって江戸無血開城が合意されると、熾仁親王は江戸城に入城してこれを接収した。皇族自らが総大将として軍を率いたことは、地方の諸藩に対して新政府への恭順を促す上で絶大な効果を発揮し、戊辰戦争を新政府側の勝利へと導く決定的な要因となった。
明治国家の形成と軍事における象徴的役割
明治維新が成った後も、熾仁親王は軍事と政治の両面で国家の重鎮として重用され続けた。1877(明治10)年に最大規模の士族反乱である西南戦争が勃発した際には、再び鹿児島県臨時刑罰使、および征討総督に就任し、かつての部下であった西郷隆盛率いる反乱軍の鎮圧を指揮した。
その後、近代陸軍の整備が進む中で、親王は陸軍大将に昇進し、初代の参謀本部長(のちの参謀総長)に就任するなど、軍の最高幹部として君臨した。1894(明治27)年の日清戦争においては、広島の大本営で参謀総長として指揮を執ったが、現地で腸チフスを発症し、翌年に薨去した。その生涯は、幕末の動乱期から近代国家・帝国陸海軍の確立期に至るまで、皇族が国家統合の象徴として軍の先頭に立ち続けた歴史を如実に物語っている。