岡田啓介

斎藤実の跡を継いで首相となり、二・二六事件で反乱軍に襲撃されたが、義弟が身代わりとなって奇跡的に生還した人物は誰か?
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★★★

岡田啓介

1868年〜1952年

【概説】
昭和初期に内閣総理大臣を務めた海軍大将、政治家。
挙国一致内閣を組織したが、天皇機関説問題に際して国体明徴声明を発して軍部や右翼の圧力に妥協し、二・二六事件では青年将校らに襲撃されたが奇跡的に難を逃れた。
その後も重臣として東條内閣の倒閣や終戦工作に暗躍し、日本の命運に深く関わった。

海軍における穏健派としての台頭

岡田啓介は福井藩士の家に生まれ、海軍兵学校を卒業して日清・日露戦争に従軍した。順調に昇進を重ねて海軍大将となり、田中義一内閣および斎藤実内閣で海軍大臣を務めた。彼の軍人・政治家としての大きな転機は、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約である。当時、軍縮に反対する軍令部などの強硬派(艦隊派)と、条約締結を推進する政府・海軍省(条約派)とが激しく対立していた。

岡田は条約派の重鎮として、海軍内の意見調整と強硬派の説得に尽力した。この働きにより、岡田は穏健で協調を重んじる良識派の軍人として、元老の西園寺公望ら宮中グループから高い評価を得ることとなった。

岡田内閣の成立と天皇機関説事件

1934年(昭和9年)、帝人事件によって崩壊した斎藤実内閣のあとを受け、岡田は第31代内閣総理大臣に就任し、軍部や政党のバランスをとる挙国一致内閣(中間内閣)を組織した。しかし、岡田内閣は軍部や右翼の台頭という荒波に直面することとなる。

1935年には、美濃部達吉の憲法学説を非難する天皇機関説事件が勃発した。岡田自身は穏健派であり、当初は美濃部の学説を擁護し、事態を静観する構えを見せていた。しかし、軍部や右翼からの猛烈な倒閣運動や圧力に抗しきれず、結果的に二度にわたる国体明徴声明を発した。これにより天皇機関説は公的に異端とされ、学問や言論の自由が著しく弾圧されるとともに、軍部の政治介入をさらに許す結果を招いてしまった。

二・二六事件における襲撃と奇跡の生還

岡田内閣の命運を決定づけたのが、1936年(昭和11年)2月26日に発生した二・二六事件である。陸軍の皇道派青年将校らが首都の中枢を占拠したこの未遂クーデターにおいて、岡田は「君側の奸」の筆頭として暗殺の標的とされた。

首相官邸を襲撃された際、容貌が似ていた義弟で秘書の松尾伝蔵が身代わりとなって射殺された。反乱軍は岡田を討ち取ったと誤認し、岡田本人は女中部屋の押入れに潜んで難を逃れた。その後、弔問客に紛れて官邸から脱出するという奇跡的な生還を果たした。しかし、政府の最高責任者としての面目を失い、事件の収拾直後に内閣は総辞職を余儀なくされた。

重臣としての終戦工作への尽力

首相退任後も、岡田の政治的役割は終わらなかった。太平洋戦争へと突き進む中で、彼は元首相らで構成される重臣会議の主要メンバーとして活動した。特に戦局が悪化した大戦末期には、米内光政らとともに和平派の中心人物として暗躍し、強硬派である東條英機内閣の倒閣運動を裏面から主導した。

また、終戦に向けた道筋をつけるため、海軍の後輩であり自身と深い親交のあった鈴木貫太郎を首相に推挙し、ポツダム宣言受諾へと導くための環境作りに奔走した。戦後はA級戦犯の指名を免れ、極東国際軍事裁判(東京裁判)に証人として出廷するなどし、1952年に84歳でこの世を去った。軍人でありながら文官的・協調的姿勢を貫き、激動の昭和史において常に国家の危機管理の中枢に立ち続けた人物である。

岡田啓介回顧録 (中公文庫 M 334)

戦前・戦中の極限の政治決断を当事者の肉声で克明に辿る歴史的証言の書。

昭和史の急所 戦争・天皇・日本人 (朝日新書)

開戦に至る権力中枢の苦悩と構造的な欠陥を冷静に解き明かす昭和史の要諦。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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