ウィレム2世
【概説】
1844(弘化元)年に江戸幕府に対して開国を勧告する親書を送ったオランダ国王。アヘン戦争によるアジア情勢の激変を背景に、日本へ「鎖国」政策の転換を促したが、幕府により拒絶された。
開国勧告の背景:アヘン戦争と東アジアの危機
19世紀前半、欧米列強はアジアへの進出を急速に強めていた。その決定的な契機となったのが、1840年に勃発したアヘン戦争である。東アジアの大国であった清がイギリスの近代軍事力に大敗し、南京条約によって開国を余儀なくされた事実は、江戸幕府に強い衝撃を与えた。
幕府はそれまで、1825年に発令した異国船打払令(無二念打払令)に基づき、日本沿岸に接近する外国船を無差別に砲撃・排斥する強硬姿勢を取っていた。しかし、清の敗北を知った幕府は政策を和らげ、1842(天保13)年に薪水給与令を発令。漂流した外国船に対して燃料や食料、水を提供して穏便に退去させる方針へと転換した。こうした緊迫した状況下で、唯一のヨーロッパの通商国であったオランダの国王ウィレム2世は、日本への直接的な外交アプローチを試みることとなった。
オランダの意図と開国勧告の拒絶
1844(弘化元)年、オランダ軍艦パレンバン号が長崎に来航し、ウィレム2世からの親書(国書)を幕府に提出した。親書の中でウィレム2世は、産業革命による蒸気船の発明が世界の距離を縮めたこと、そしてアヘン戦争の推移を詳細に説き、日本が孤立を続ければ同様の惨禍に見舞われる危険性があると警告した。その上で、大乱を未然に防ぐために、平和的に諸外国との通商を許可(開国)すべきだと強く勧告したのである。
オランダがこのような勧告を行った背景には、日本が他国と戦争になることで自国の長崎貿易が途絶することを防ぐ狙いや、日本を平和裏に開国へ導くことで、東アジアにおける自国の調停者としての国際的地位を高めたいという思惑があった。しかし、翌1845(弘化2)年、老中首座の阿部正弘ら幕府首脳部は、この勧告を拒絶する。幕府は、オランダとの関係を正式な国交(通信)ではなく単なる貿易関係(通商)と位置づけ、「祖法」である鎖国を維持することを回答した。
親書拒絶の影響と情報の価値
幕府はウィレム2世の勧告を公式に拒絶したものの、世界情勢の緊迫化を深く認識することとなった。この事件以降、幕府はオランダ風説書に加えて、より詳細な海外情勢を記した別段風説書の提出をオランダに要求するようになる。これにより、1853年のペリー来航(黒船来航)の予告情報を事前に察知するなど、情報の重要性はさらに高まった。結果として、ウィレム2世の勧告は拒絶されたものの、幕府が来るべき近代化と開国への備えを進める上で、極めて重要な警鐘となったのである。