ビッドル
【概説】
1846年に浦賀に来航し、江戸幕府に対して公式に開国と通商を求めたアメリカ東インド艦隊司令長官。清との望厦条約批准のために東アジアへ派遣されたのち日本に立ち寄ったが、幕府に拒絶され退去した。のちのペリー来航に先立つ、アメリカによる組織的な開国要求の端緒となった人物である。
浦賀来航の歴史的背景と幕府の拒絶
19世紀半ば、アヘン戦争における清の敗北と南京条約の締結は、東アジアの国際情勢を劇的に変化させた。産業革命を経てアジア市場への進出を狙うアメリカ合衆国は、1844年に清との間で望厦(ぼうか)条約を締結。これに伴い、中国へと向かう商船や太平洋で活動する捕鯨船の補給・寄港地として、日本の開国が極めて重要な課題として浮上した。
1846年(弘化3年)閏5月、アメリカ東インド艦隊司令長官であったジェームズ・ビッドルは、戦列艦コロンバス号と戦闘スループ・ヴィンセンス号の2隻を率いて相模国の浦賀へと来航した。ビッドルは通商交渉の開始を公式に要求したが、老中首座・阿部正弘を筆頭とする江戸幕府はこれを拒絶。「祖法」(鎖国)を理由に、オランダ以外の国との交渉は行わず、また全ての外交窓口は長崎に限定されていると通告した。ビッドルは「不必要な衝突を避ける」という本国からの訓令を遵守していたため、武力行使などの強硬手段に出ることはなく、平穏に浦賀を退去した。
「穏健外交」の挫折とペリーの「砲艦外交」への影響
ビッドルがとった交渉態度は極めて温和で、日本の主権や手続きを尊重するものであった。しかしこの「穏健外交」は、幕府側に「アメリカは容易に追い払える相手である」という安易な妥協と油断を与える結果となった。幕府はビッドルを退散させたことで、従来の鎖国体制がそのまま通用するという認識に安住し、本格的な国防や制度改革を先送りにしてしまった。
このビッドルの「失敗」は、のちにアメリカ政府および海軍に大きな教訓を与えることとなる。1853年に再び浦賀へ来航したマシュー・ペリーは、ビッドルの妥協的な姿勢が日本側の態度を頑なにしたと厳しく批判。最初から圧倒的な軍事力を見せつけて威嚇する「砲艦外交」を採用し、幕府に対して一切の妥協を許さない姿勢で臨んだ。ビッドルの挫折とその分析があったからこそ、ペリーの強硬路線が選択され、最終的な日米和親条約の締結(開国)へと繋がることになったのである。