裴世清 (はいせいせい)
生没年不詳
【概説】
608年に小野妹子の帰国に同行して来日した、中国・隋からの答礼使。第2回遣隋使に対する煬帝からの使節として飛鳥の倭(日本)朝廷を訪れ、国書をもたらした外交官である。
隋の答礼使としての派遣背景
607年(推古15年)、倭国(日本)は小野妹子を第2回遣隋使として派遣し、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや…」で始まる国書を隋の煬帝に提出した。煬帝はこの国書に見られる対等な外交姿勢に立腹したが、当時、隋は高句麗遠征を控えており、東方の倭国を孤立させて敵に回すのは得策ではないと政治的に判断した。そのため、倭国との友好関係を維持する目的で、文林郎(皇帝の秘書官を務める文官)であった裴世清を答礼使として倭国へ派遣することを決定した。
裴世清の来倭とその歴史的影響
裴世清は、小野妹子の帰国に同行する形で百済を経由し、608年(推古16年)に筑紫へと到着した。その後、難波宮(なにわのみや)を経て大和に入り、飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)で推古天皇や聖徳太子らに拝謁し、煬帝からの国書を奉呈した。裴世清が帰国する際、倭国側は再び小野妹子を遣隋使として同行させ、このときに高向玄理、僧旻、南淵請安ら多くの留学生・留学僧が隋へと渡った。彼らがのちに持ち帰った知識は、大化の改新をはじめとする日本の律令国家形成に決定的な影響を与えることとなった。また、裴世清が中国に帰国したのち、彼の報告をもとに編纂された『隋書』東夷伝倭国条(隋書倭国伝)は、当時の倭国の官位十二階の制度や独自の風俗、地理を現代に伝える極めて貴重な一級史料となっている。