留学生 (るがくしょう)
【概説】
遣隋使や遣唐使に随行して中国大陸へ渡り、長期にわたって現地の政治、法律、学問、技術などを学んだ学生。帰国後は律令国家の形成期において制度の設計や大陸文化の移植を主導し、古代日本の国家建設に決定的な役割を果たした知的先駆者たちである。
留学生(るがくしょう)と留学僧の違いと派遣の背景
古代日本において、中国の先進的な国家体制や文化を導入するために派遣された人々は、大きく留学生(るがくしょう)と留学僧(るがくそう)に大別される。留学僧が主に仏教の教理や経典を学ぶ宗教的な存在であったのに対し、留学生は儒学、律令(法律・政治制度)、歴史、天文、暦学、医学といった実用的な学術や世俗的な制度を学ぶことを目的とした。
彼らの多くは一度中国へ渡ると、数年から、場合によっては数十年におよぶ長期の滞在を余儀なくされた。次の使節(遣隋使や遣唐使)が来航するまで帰国する手段がなかったためであるが、その長い滞在期間こそが、唐の「大学」などでの専門的な就学や、中国社会のシステムを深く理解することにつながった。
帰国後の活躍と「国家のデザイン」への貢献
留学生たちの帰国は、日本の政治体制を大きく変革する契機となった。最も顕著な例が、推古天皇朝の608年(第2回遣隋使)に渡海し、30年前後の滞在を経て帰国した高向玄理(たかむこのくろまろ)や南淵請安(みなぶちのしょうあん)、そして留学僧の僧旻(そうみん)らである。彼らは隋から唐への王朝交代期における激動の中国をつぶさに観察し、最新の集権的国家統治の理論を身につけて帰国した。
彼らが開いた私塾には、中大兄皇子(天智天皇)や中臣鎌足(藤原鎌足)らが通い、そこで得られた知識が645年の大化の改新へと結実することになる。高向玄理や僧旻は新政府の国博士(くにのはかせ)に任じられ、改新の詔の起草や、日本独自の律令国家への道筋をつくるブレーンとして活躍した。
奈良時代の展開と学術・文化への影響
奈良時代に入ると、さらに高度な専門知識を持った留学生が活躍する。717年の遣唐使に同行した吉備真備(きびのまきび)は、約17年間の滞在で儒学、天文学、軍学などを修め、帰国後は聖武天皇や橘諸兄の政権下で重用された。真備は『唐礼』をもとに日本の朝廷儀礼を整え、さらに地方の軍制改革や造都事業にも深く関与した。
彼ら留学生がもたらした典籍や専門技術は、単なる「中国文化の模倣」にとどまらず、日本の実情に合わせた国家制度の「翻訳」と「定着」に不可欠なものであった。しかし、その高い知識ゆえに国内の権力闘争に巻き込まれることも多く、吉備真備と対立した藤原広嗣による乱(藤原広嗣の乱)など、同時代の政治動向にも密接に関わっていた。9世紀末の遣唐使廃止にともない公式な留学生の派遣は途絶えるが、彼らが築いた学術と制度の基礎は、その後の国風文化の土台としても生き続けることとなった。