学問僧

重要度
★★

【参考リンク】
僧(Wikipedia)

学問僧 (がくもんそう)

7世紀〜9世紀

【概説】
遣隋使や遣唐使に同行して中国大陸(隋・唐)へ渡り、仏教の教理や高度な大陸文化を専門的に学び、帰国後に日本の国家形成や仏教界の発展に大きく貢献した知識人としての僧侶。

留学生との違いと学問僧の派遣意義

古代の日本において、遣隋使や遣唐使に同行して大陸に渡った人々は、主に留学生(るがくしょう)と学問僧(留学僧とも呼ばれる)に大別される。留学生が主に官僚候補生や貴族の子弟であり、儒学や律令制度、歴史などの世俗的な政治学・実学を学んだのに対し、学問僧は主に仏教の高度な経典や教理、国家護持のための思想を学ぶことを目的とした。当時の東アジアにおいて、仏教は最新の学問体系であり、かつ国家を鎮護するための普遍的なイデオロギーでもあったため、優秀な僧侶を大陸に派遣してその最先端を吸収させることは、倭(日本)の国家形成において極めて重要視された。

飛鳥時代の国政改革における「学問僧」の政治的役割

飛鳥時代において、学問僧は単なる宗教家にとどまらず、最先端の知識政治家として政治の中枢に参画した。代表的な人物として、推古朝の遣隋使(608年)に同行して大陸へ渡った(みん)や南淵請安(みなみぶちのしょうあん)が挙げられる。彼らは20年以上にわたって大陸の変革期(隋の滅亡から唐の建国)を目撃し、新興の唐が整備しつつあった均田制や律令制などの統治制度を学んで帰国した。

帰国後、南淵請安が開いた私塾には中大兄皇子中臣鎌足が通い、蘇我氏打倒の謀略や大陸の進んだ政治体制について教えを受けたとされる。また、大化の改新(645年)が始まると、僧旻は留学生であった高向玄理(たかむこのくろまろ)とともに新政府の国博士(くにのはかせ)に任命され、律令国家の骨格づくりにおいて主導的な役割を果たした。このように、初期の学問僧は日本の律令制導入における最大の思想的先導者であった。

奈良・平安初期への展開と仏教変革への影響

時代が下るにつれ、学問僧の役割は政治顧問的なものから、純粋な仏教教理の導入と日本仏教の刷新へとシフトしていった。奈良時代には、唐で法相宗を学び帰国後に聖武天皇の信任を得て大僧正となった玄昉(げんぼう)や、長く唐に滞在した後に帰国して日本の戒律制度を整えた普照(ふしょう)らが活躍した。

さらに平安時代初期の遣唐使(804年)では、長期間滞在して学ぶ通常の学問僧(留学僧)である空海と、短期間で密教などの新仏教を日本に持ち帰ることを義務付けられた還学生(げんがくしょう)としての最澄が渡唐した。最澄は天台宗を、空海は真言宗をそれぞれ日本にもたらし、それまでの南都六宗を中心とした「鎮護国家」のための国家仏教から、個人の救済や内省を重視する「平安密教」への大きなパラダイムシフトを引き起こした。このように、学問僧の系譜は日本思想史における最大の画期を創出する原動力となったのである。

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最澄と天台教団 (講談社学術文庫 2609)

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日本史一問一答(ランダム)

Q. 701年に制定・施行され、日本の本格的な中央集権体制(律令制)を完成させた歴史的な法典は何か?
Q. 縄文時代晩期の地層から水田の跡や石包丁が発見された、佐賀県唐津市にある日本最古級の稲作遺跡はどこか?
Q. 碧玉などで作られた腕輪形石製品のうち、南島の貝輪を模して作られ、表面に放射状の筋が刻まれているものを何というか?