国会開設請願書
【概説】
明治時代前期の自由民権運動において、全国的な国会開設運動の結実として作成された嘆願書。民権派の全国組織である国会期成同盟が中心となり、約8万7000人の署名を集めて政府に提出を試みたが、受理を拒否された。
国会期成同盟の結成と請願運動の組織化
1874年の「民撰議院設立建白書」の提出に始まった自由民権運動は、地方の豪農や商人を巻き込みながら全国的な広がりを見せていた。1880年3月、大阪に全国の民権運動の結社が集まり、愛国社第4回大会が開催された。ここで愛国社を発展的に解消する形で、全国規模の運動組織である国会期成同盟が結成された。
国会期成同盟の当面の目標は、全国から国会開設を求める署名を集め、天皇および政府(太政官)に対して直接請願を行うことであった。この方針に基づき、各地の代表者が熱心に署名活動を展開した結果、短期間で約8万7000人分(一説にはさらに多数)の署名が集まることとなった。これが「国会開設請願書」である。
政府の拒絶と弾圧の強化
1880年4月、国会期成同盟の代表として選出された片岡健吉や河野広中らは、東京に赴いて太政官および元老院に請願書を提出しようとした。しかし、明治政府の首脳(藩閥)はこれを拒否した。「一私人(または公認されていない結社)からの請願は受理しない」という形式的な理由を盾に、受け取りすら拒んだのである。
さらに政府は、同月に集会・結社の自由を厳しく制限する集会条例を制定し、民権派の合流や弾圧に乗り出した。これにより、合法的な請願という手段を通じた国会開設の要求は事実上、力ずくで阻まれることとなった。
歴史的意義と「明治十四年の政変」への影響
国会開設請願書そのものは政府に受理されなかったものの、この運動は日本の憲政史上、極めて重要な画期となった。全国の知識人や豪農層が結びつき、組織的な意思表示を行ったことで、もはや政府も国会開設の要求を無視し続けることは不可能となった。
政府内部でも、国会開設の時期や憲法制定のあり方をめぐる路線対立が表面化し、これが翌1881年の明治十四年の政変へとつながることになる。最終的に政府は、大隈重信を追放する一方で、激化する民権運動を沈静化させるため、10年後の国会開設を約束する「国会開設の勅諭」を出さざるを得なくなった。国会開設請願書は、日本の議会政治誕生を大きく引き寄せた民衆パワーの象徴的な史料と言える。