国会期成同盟
【概説】
1880(明治13)年、愛国社を中心に全国の民権家が大阪に集まり結成された、国会開設を求める全国的な政治結社。自由民権運動が全国的な広がりを見せる中で請願運動の中心的な役割を担い、のちの自由党の母体となった。
結成の背景と愛国社からの発展
1877(明治10)年の西南戦争によって不平士族の武力反乱が終息すると、反政府運動の主軸は言論による自由民権運動へと完全に移行した。この頃から、運動の担い手は没落士族だけでなく、地租の軽減や村会での発言権拡大を求める地方の豪農や、都市の商工業者層にまで広がりを見せるようになった(豪農民権)。
こうした中、板垣退助らが創設し一時休眠状態にあった愛国社が再建され、全国の民権結社を束ねるネットワークとして機能し始めた。1880(明治13)年3月、大阪で愛国社第4回大会が開催され、全国2府22県から114名の代表が集結した。この大会において、国会開設を政府に迫るためのより強力な全国組織の必要性が痛感され、愛国社を発展的に改組する形で国会期成同盟が結成されたのである。
建白書の提出と請願運動の高揚
国会期成同盟の当面の最大目標は、政府に対する国会開設の請願活動であった。同盟は、全国各地の民権家から集められた約9万7000名余りにのぼる署名を添えた「国会を開設するの請願書(建白書)」を作成した。
同年4月、同盟の代表として片岡健吉や河野広中らが上京し、太政官や元老院に建白書を提出しようと試みた。政府は請願の法的な手続きの不備などを理由にこれを受理しなかったが、彼らの行動は全国の民権家を大いに刺激し、各地で独自の建白書を作成・提出する動きが爆発的に広がる契機となった。
集会条例による弾圧と私擬憲法の起草
運動の急速な高揚と全国的な連帯に危機感を抱いた明治政府は、1880年4月に集会条例を制定し、警察官の集会への立ち入りや解散権の行使を認めるなど、政治集会や結社に対する厳しい統制・弾圧に乗り出した。
しかし、国会期成同盟は弾圧に屈することなく運動を継続した。同年11月に東京で開かれた第2回大会では、翌年の大会までに各地方の結社で独自の憲法草案(私擬憲法)を持ち寄ることを決議した。これにより、植木枝盛の『東洋大日本国国憲按』や、五日市学芸講談会による『五日市憲法草案』など、民間の手による多様で民主的な憲法構想が全国各地で盛んに練られることとなった。
自由党への発展と歴史的意義
1881(明治14)年10月、開拓使官有物払下げ事件に端を発する明治十四年の政変が起こり、政府はついに「国会開設の勅諭」を発布して、10年後の国会開設を国民に約束した。
この勅諭を受け、国会期成同盟は単なる請願団体としての役割を終え、来るべき国会における議席獲得と政権運営を見据えた本格的な政党結成へと舵を切った。そして同月、国会期成同盟を母体として、板垣退助を総理(党首)とする日本初の本格的な近代政党である自由党が結成され、同盟は発展的に解消した。
国会期成同盟は、身分や地域を越えた人々が「国会開設」という単一の政治目標の下に結集した日本初の全国的な大衆政治組織であり、明治期の議会政治実現への確固たる道筋をつけた点で極めて重要な歴史的意義を持っている。