崇仏論争

重要度

【参考リンク】
仏教公伝(Wikipedia)

崇仏論争 (すうぶつろんそう)

6世紀半ば〜587年

【概説】
古墳時代後期において、百済から伝来した仏教の受容をめぐって生じた政治的・宗教的対立。新興の仏教を保護・信仰しようとする崇仏派の蘇我氏と、伝統的な在来信仰(神道)を重視して仏教排除を主張する排仏派の物部氏・中臣氏が激しく対立した。この論争は単なる信仰の優劣にとどまらず、ヤマト政権内における主導権争いとしての側面を強く持っていた。

仏教公伝と対立の構図

欽明天皇の時代(538年または552年説が有力)、百済の聖明王から仏像や経典がもたらされた(仏教公伝)。天皇から仏教受容の是非を問われた群臣の間で、意見が二分することとなる。渡来人系技術集団と結びつき、大陸の先進的な文化や制度の導入を進めようとする大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがのいなめ)は、国家の繁栄のために崇仏を主張した。これに対し、神事・祭祀を司る連(むらじ)の中臣鎌子(なかとみのかまこ)や、軍事を司る大連(おおむらじ)の物部尾輿(もののべのおこし)らは、外来の「蕃神(となりのくにのかみ)」を祀れば国神(くにつかみ)の怒りを買うとして猛烈に反対(排仏)した。天皇は蘇我氏に私的な信仰を試させたが、直後に疫病が流行すると、排仏派はこれを「仏の祟り」とし、寺を焼き仏像を難波の堀江に投げ捨てるなど、両者の対立は感情的な対立へと発展していった。

丁未の乱による決着と歴史的意義

この論争は次世代の蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)の代に引き継がれ、さらに深刻化する。用明天皇が崩御すると、皇位継承問題を契機に両派の対立はついに武力衝突へと発展した。587年、蘇我馬子は厩戸皇子(聖徳太子)ら諸皇子を味方に引き入れ、物部守屋を討伐した(丁未の乱〈ていびのらん〉)。これにより物部氏は没落し、崇仏論争は蘇我氏の勝利で決着した。物部氏の滅亡は、古くからの氏族共同体的な秩序が解体に向かい、仏教を基盤とする新たな中央集権国家の形成へと舵が切られる象徴的な出来事となった。以後、蘇我氏の主導のもとで法興寺(飛鳥寺)などの本格的な寺院が建立され、日本最初の仏教文化である飛鳥文化が花開くこととなる。

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日本史一問一答(ランダム)

Q. 律令において定められた五刑(むち打つ刑から死刑まで)を、軽い順から5つすべて漢字1文字ずつで答えよ。
Q. 古代の王の権威の象徴とされ、日本の皇室に受け継がれている鏡・玉・剣を総称して何というか?
Q. 仏教の受容をめぐって蘇我馬子と激しく対立したが、丁未の乱で敗れて滅ぼされた物部氏のトップ(大連)は誰か?