物部尾輿

重要度
★★

【参考リンク】
物部尾輿(Wikipedia)

物部尾輿 (もののべのおこし)

生没年不詳

【概説】
6世紀半ばの欽明天皇朝において、最高執政官である「大連(おおむらじ)」を務めた有力豪族。百済より仏教が伝来した際、伝統的な八百万の神を重視する立場からその受容に強く反対した。崇仏を主張する「大臣(おおおみ)」の蘇我稲目と激しく対立し、後の排仏論争の端緒を開いた人物である。

軍事・祭祀を掌る名門・物部氏と尾輿の台頭

物部氏は、古代の大和朝廷において軍事や警察、刑罰、および武器の管理などを掌った有力な伴造(とものみやつこ)出身の氏族である。大和盆地東部の石上神宮(現在の奈良県天理市)を氏神とし、宮廷の武器庫を管理するなど、朝廷の物理的武力を象徴する存在であった。

物部尾輿は、6世紀前葉の宣化天皇の代に、朝廷の最高職の一つである大連に就任したとされる。当時の朝鮮半島では新羅の台頭によって任那(加羅)が危機に瀕しており、尾輿は軍事と外交の双方において朝廷の重要な意思決定を担った。尾輿の権力基盤は、朝廷の伝統的な軍事統率力と、古来の「神道」的な神格に依拠していた。

仏教伝来と蘇我稲目との「崇仏・廃仏論争」

欽明天皇の時代(538年または552年)、百済の聖明王から仏像や経典が送られ、日本に公的に仏教が伝来した(仏教公伝)。欽明天皇から仏教を受容すべきか否かの諮問を受けた際、先進的な渡来系氏族を統括して勢力を伸ばしていた大臣の蘇我稲目は、「西の諸国はみなこれ(仏教)を礼拝しており、我が国も背くべきではない」として受容を主張した(崇仏派)。

これに対し、物部尾輿は中臣鎌子(なかとみのかまこ)と共に、「我が国の王の天下には、天地の神々が百八十柱おられる。今改めて隣国の神を拝めば、国神たちの怒りを招くだろう」と猛烈に反対した(廃仏派)。天皇は妥協案として蘇我稲目に仏像を私的に礼拝することを許したが、間もなく疫病が流行すると、尾輿らはこれを「仏教を礼拝したことによる国神の祟り」と奏上。稲目が建てた向原寺(むくはらでら)を焼き払い、仏像を難波の堀江へと投げ捨てる強硬策を断行した。これが日本史上初の本格的な「崇仏・廃仏論争」である。

氏族間の主導権争いと次世代への継承

物部尾輿と蘇我稲目の対立は、単なる宗教的教義をめぐる争いにとどまらず、朝廷内における氏族間の政治的主導権争いという側面が極めて強かった。新興勢力である蘇我氏が、大陸の高度な文化や制度(仏教の受容)を取り入れることで官僚制的な国家への移行を目指したのに対し、旧来の氏族である物部氏は、伝統的な世襲特権や軍事支配体制、およびそれを正当化する土着の祭祀を守ろうとした保守・革新の衝突であった。

この尾輿と稲目の政治的対立は決着を見ないまま、次世代である尾輿の子・物部守屋と、稲目の子・蘇我馬子へと引き継がれる。この確執は、やがて587年の丁未の乱(ていみのらん)における物部氏の滅亡、そして蘇我氏の専横と大化の改新へと至る、古代日本の権力構造を大きく変容させる出発点となった。

蘇我氏 ― 古代豪族の興亡 (中公新書 2353)

古代日本の権力構造を象徴する蘇我氏の興亡と、政治的躍動の全貌に迫る歴史解明の一冊。

物部氏の伝承 (講談社学術文庫 1865)

日本古代史の闇に消えた名門・物部氏の足跡を辿り、その神話的背景と実像を読み解く深淵なる書。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 古墳の表面を覆うように敷き詰められた、土砂の崩落防止や装飾の役割を持った石を何というか?
Q. 夢殿がある東院伽藍に対し、金堂や五重塔が立ち並び、世界最古の木造建築群を形成している法隆寺の区画を何というか?
Q. ネアンデルタール人に代表される、死者を埋葬する風習を持ち、剥片石器を発達させた人類の進化段階を何というか?