西山宗因 (にしやまそういん)
【概説】
江戸時代前期に活躍した連歌師、俳人。それまでの古典的で形式主義的な貞門派の俳諧を批判し、自由奔放で即興性を重んじる「談林派」を確立した人物。新興町人の圧倒的な支持を集め、元禄文化へと至る庶民文学の先駆者となった。
貞門派への反発と「談林俳諧」の誕生
江戸時代初期、松永貞徳が興した貞門派は、連歌の厳格な規則(式目)を重んじ、古典的な教養を背景とした「雅」な美意識を特徴としていた。しかし、幕藩体制の安定とともに都市の町人層が台頭すると、貞門派のルールに縛られた作風は次第にマンネリ化し、時代の生命力を失っていった。
こうした状況に対して、元は武士であり連歌師として高い名声を得ていた西山宗因は、形式主義を打破する新たな俳諧を提唱した。彼は漢語やオランダ語などの外来語、あるいは当時の流行語や俗語を大胆に取り入れ、従来の規則を無視した自由な発想と、テンポの速い即興的な句作を推奨した。これが談林派(談林俳諧)であり、寛文・延宝期(17世紀後半)に大坂を中心として爆発的な流行を見るに至った。
町人文化への貢献と松尾芭蕉への架け橋
西山宗因の創始した談林俳諧は、当時の大坂の旺盛な商業活動や、町人たちの自由で躍動的な精神生活と深く結びついていた。宗因の門下からは、のちに『好色一代男』などを著して浮世草子の祖となる井原西鶴が輩出された。西鶴が24時間に数千句を詠む「矢数俳諧」で名を馳せたのも、談林派が持っていた即興性と、言葉遊びのスピード感を極限まで追求した結果である。
しかし、談林派の極端な「俗」への傾倒は、単なる言葉のダジャレや滑稽(おかしみ)に終始する危険性も孕んでいた。やがて談林の流行が急速に衰退すると、その自由な精神を受け継ぎつつも、再び高い芸術性や精神性を俳諧に吹き込もうとする動きが現れた。それが、後に「俳聖」と称される松尾芭蕉による蕉風(正風)俳諧である。西山宗因の試みは、中世的な古典美から近世的な庶民文学へと移行する歴史的過渡期において、文学の門戸を庶民に広く開放したという点できわめて重要な意義を持っている。