談林派 (だんりんは)
【概説】
江戸時代前期の延宝期を中心に流行した、西山宗因を祖とする俳諧の流派。先行する貞門派の固定化された規則や衒学的な作風に反発し、自由奔放で軽妙洒脱な表現を重んじた。新興の町人層の支持を集めて一世を風靡し、後の松尾芭蕉や井原西鶴らの文学に決定的な影響を与えた。
貞門派への反発と談林派の興隆
江戸時代初期、松永貞徳が確立した貞門(ていもん)派は、和歌や連歌の格式を重んじ、伝統的な規則(式目)に則った知的な言葉遊びとしての俳諧を展開していた。しかし、貞門派が全国に普及して定着すると、次第にその規則が固定化し、形式主義的でマンネリ化した作風に陥っていった。
このような閉塞感を打破すべく、寛文・延宝期(1660年代後半〜1670年代)に大坂の連歌師であった西山宗因(にしやまそういん)を中心として興ったのが談林派である。彼らは、形式に縛られた貞門派を「古臭い」ものとし、より人間の生々しい感情や、日常生活に即した自由な精神を表現しようとした。談林とは、仏教の「談林(学問所)」に由来し、俳諧の学問的・芸術的な自立を象徴する名称でもあった。
談林俳諧の特質と「軽口」の流行
談林派の最大の最大の特徴は、伝統的な連歌や貞門俳諧の規則(式目)をあえて無視・破壊した点にある。作風は軽妙洒脱(けいみょうしゃだつ)であり、滑稽やパロディ、当世の流行語、俗語、さらには漢語を大胆に取り入れた。こうした表現は「軽口(かるくち)」や「和漢混淆」の体(てい)と呼ばれ、新興の町人たちの圧倒的な支持を獲得した。
また、談林派の流行に伴い、一昼夜に詠む句の多さを競い合う矢数(やかず)俳諧が盛んに行われた。これはスピードと多作を重んじるもので、のちに浮世草子作家として大成する井原西鶴(いはらせいかく)は、一晩に4000句、さらには2万句(単家二十一千句)を独吟する記録を打ち立て、談林俳諧の極致を示した。このように、談林派は文学における時間や空間の制約を取り払い、ダイナミックな大衆文化としての俳諧を開花させた。
元禄文化への橋渡しと歴史的意義
談林派の自由奔放な作風は、一時的なブームに終わった側面もある。奇抜さやスピードを競うあまり、芸術的な深みに欠け、やがて独りよがりの言葉遊びに堕してしまったためである。1680年代に入るとその勢いは急速に衰退した。
しかし、談林派が果たした歴史的役割は極めて大きい。俳諧を古典的な呪縛から解放し、庶民の日常をありのままに描く表現手法を確立したことは、のちの元禄文化の土台となった。若き日の松尾芭蕉も談林派の洗礼を受け、その自由な精神を吸収した後に、独自の芸術性を高めた「蕉風(正風)俳諧」を確立することになる。談林派は、中世的な古典主義から、近世的な人間謳歌の文学へと移行する過渡期において、決定的な役割を果たした流派であったといえる。