シーメンス事件
【概説】
1914年に発覚した、日本海軍の高官が軍艦や兵器の導入をめぐり外国企業から巨額の賄賂を受け取っていた汚職事件。大衆の激しい怒りを買って第1次山本権兵衛内閣を総辞職に追い込み、大正デモクラシー期における民衆運動の昂揚を象徴する出来事となった。
事件の発覚と軍部汚職の構図
1914年(大正3年)1月、ドイツのシーメンス社の東京支社から盗み出された秘密書類が発端となり、日本海軍の通信機器や兵器導入に関する汚職が明るみに出た。さらにイギリスのヴィッカース社からの金剛型戦艦の発注をめぐる贈収賄も発覚し、元艦政局機関長・松尾鶴太郎や艦政本部員・沢崎寛猛ら、海軍高官が巨額の賄賂を受け取っていたことが明らかになった。
日露戦争後の日本海軍は、積極的な拡張計画を進める中で莫大な国家予算を消費していた。その不透明な資金の流れが、外国企業との癒着という最悪の形で露呈したことで、国民の間には強い不信感と怒りが沸き起こることとなった。
内閣の退撃と民衆運動の激化
当時、政権を担っていたのは薩摩閥の海軍大将である山本権兵衛が率いる第1次山本内閣であった。山本内閣は軍部大臣現役武官制の改正や行政整理などを断行し、一定の改革派として評価されていた。しかし、自身の出身母体である海軍の巨大スキャンダルを前に、厳しい追及を免れることはできなかった。
野党の立憲同志会などが議会で政府を激しく追及すると同時に、大正政変(第1次憲政擁護運動)を経験した民衆は全国各地で糾弾大会を開催した。東京の日比谷公園に集まった群衆は暴動化し、警視庁や新聞社を取り囲むなど、政府に対する直接的な抵抗運動を展開した。最終的に、貴族院による海軍予算の減額査定をきっかけとして、1914年3月に山本内閣は総辞職を余儀なくされた。
近代日本政治史における歴史的意義
シーメンス事件は、単なる一汚職事件にとどまらず、近代日本の政治構造に決定的な変化を促す契機となった。第一に、藩閥勢力の拠点の一つであった海軍への社会的信頼が失墜し、軍に対するシビリアン・コントロール(文民統制)や軍事予算の適正化を求める世論が強化された。
第二に、大正政変から続く民衆の政治参加への意欲をさらに押し上げ、大正デモクラシーの潮流を加速させた。議会外の世論と民衆行動が内閣を打倒しうるという実例が再び示されたことは、のちの本格的な政党政治の実現に向けた大きなマイルストーンとなったのである。