小作調停法 (こさくちょうていほう)
【概説】
大正デモクラシー期に激増した小作争議を解決するため、1924年に制定された調停制度。当事者の申し立てまたは裁判所の職権に基づき、裁判所が介入して妥協を図る仕組みであったが、実質的には地主側に有利な解決が図られることが多かった。
第一次世界大戦後の農村変容と小作争議の激化
第一次世界大戦期の好景気とその後の戦後不況は、日本の農村社会に深刻な変化をもたらした。都市部での労働運動の高揚や大正デモクラシーの進展、さらにはロシア革命などの影響を受け、それまで従属的な立場にあった小作人たちの間で権利意識や階級意識が目覚め始めた。1922年には日本初の全国的な農民組織である日本農民組合(日農)が結成され、減免を求める小作争議は組織化・過激化していった。
従来の「地主と小作人の美風」とされた家父長的な関係は崩壊し、小作料の引き下げや耕作権の確立を求める農民と、私有財産権の死守を図る地主との対立は社会秩序を揺るがす深刻な問題となった。こうした状況に対し、政府は小作制度そのものの抜本的改革(自作農創設や小作法の制定)を先送りしつつ、まずは目の前の紛争を速やかに収束させるための法的枠組みを模索した。その結果として制定されたのが、この小作調停法であった。
小作調停法の仕組みと「地主有利」の実態
小作調停法は、争議が発生した際、当事者からの申し立て、または地方裁判所の職権によって調停手続きを開始するものであった。裁判官と民間から選ばれた調停委員(地方の「有識者」など)によって構成される調停委員会が、両者の仲介に入って妥協案を作成し、合意に至ればその調停は裁判上の和解と同一の効力を持った。
しかし、この制度は本質的に地主擁護の色彩が強かった。調停委員に選ばれる「有識者」の多くは地主層や地方の名望家であり、小作人側の要求が十分に反映されにくい構造になっていた。また、小作人側が法的な解決を拒んで争議を継続しようとしても、裁判所の職権によって強制的に調停手続きに引き込まれることもあった。このため、小作調停法は小作人の地位向上ではなく、現存する地主・小作関係を温存したまま争議を早期に幕引きするための「治安対策」として機能した側面が強い。
歴史的意義と「アメとムチ」の社会政策
小作調停法は、国家が私人間(私有財産・契約関係)の紛争に介入して強制的に調停を行うという点で、日本における労働・社会立法の先駆的な事例であった。1926年には同様の思想に基づく労働争議調停法が制定されており、大正後期の社会運動の高揚に対する一連の法整備(いわゆる「社会政策」)の一環に位置づけられる。
本法の制定は加藤高明内閣(護憲三派内閣)のもとで行われたが、これは翌1925年の普通選挙法(アメ)と治安維持法(ムチ)に代表される、民意の統合と社会主義・過激運動の排除という二面性を持った統治策の先駆けでもあった。農村の構造的矛盾は戦前の段階では根本的に解決されず、本格的な土地制度の改革は第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による農地改革を待たねばならなかった。