一遍(智真・遊行上人) (いっぺん)
【概説】
鎌倉時代中期の僧であり、時宗の開祖。一切の財産や定住の地を持たずに全国を巡り歩く「遊行」を行い、念仏札を配る「賦算」や「踊念仏」を通じて、身分を問わず広く民衆に阿弥陀仏の救済を説いた。
伊予の名族からの出家と熊野での神託
一遍は、伊予国(現在の愛媛県)の有力な武士である河野氏の出身である。祖父の河野通信は源平の争乱で功績を挙げたが、承久の乱で京方について敗れ、一族は没落の憂き目に遭っていた。一遍は10歳で出家し、大宰府で浄土宗西山流の聖達に師事して智真(ちしん)と名乗った。一度は還俗して実家に戻ったものの、一族の争いなどを機に再び仏門に入り、求道の旅に出た。
文永11年(1274年)、紀伊国の熊野本宮に参籠した一遍は、熊野権現(阿弥陀如来の化身とされる)から決定的な神託を受ける。それは「阿弥陀仏による衆生の救済はすでに南無阿弥陀仏の六字に決定しているのだから、信じる・信じない、あるいは心が浄らかである・ないに関わらず、ただ念仏の札を配りなさい」というものであった。この熊野での啓示が、後に時宗と呼ばれる教団の開宗の瞬間と位置づけられている。法然や親鸞が説いた「他力本願」の思想を極限まで推し進め、個人の心のあり方すら問わず、名号(南無阿弥陀仏)そのものに絶対的な救済力があると説く「絶対他力」の境地に至ったのである。
「捨聖」としての遊行と賦算の展開
熊野での神託以降、一遍は自らの教えを実践するため、家族や財産を捨て、特定の寺院という定住の地を持たずに全国を歩き回る遊行(ゆぎょう)の旅を始めた。この徹底した無所有の姿から、一遍は「捨聖」(すてひじり)あるいは「遊行上人」(ゆぎょうしょうにん)と呼ばれた。
遊行の道中、一遍が行ったのが賦算(ふさん)である。これは「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と記された算(念仏札)を人々に配る行為であった。一遍は貴族や武士だけでなく、農民や商人、さらには当時の社会で最も差別されていた非人(乞食やハンセン病患者など)に対しても、全く分け隔てなく念仏札を配り歩いた。これは、仏の救済の前ではあらゆる階層が平等であるという彼の強烈な信念の表れであった。
踊念仏の熱狂と民衆への浸透
信濃国の伴野荘(現在の長野県佐久市)に滞在した際、一遍は念仏を唱えながら踊る踊念仏(おどりねんぶつ)を始めたとされる。これは平安時代中期の僧・空也が行った鉢叩きを伴う念仏を継承し、さらに集団的で熱狂的なものへと発展させたものであった。
鉦(かね)や鉢を打ち鳴らし、大勢で円陣を組んで踊りながら念仏を唱えるこのスタイルは、当時の民衆の宗教的感情を激しく揺さぶり、全国各地で爆発的な人気を呼んだ。鎌倉新仏教の諸宗派の中でも、時宗はとりわけ視覚的・身体的なアプローチを持っており、文字の読めない最下層の民衆にまで最も広く、そして深く浸透していった。
時宗の成立と『一遍聖絵』の史料的価値
一遍は正応2年(1289年)、遊行の途上であった摂津国兵庫の観音堂(現在の真光寺)で51歳の生涯を閉じた。一遍自身は教団を組織する気がなく、自らの著作なども臨終に際して「阿弥陀仏の教えのほかは不要」として燃やしてしまった。しかし、彼の死後に有力な弟子である他阿弥陀仏(たあみだぶつ / 真教)が教団を組織化し、道場を建立していくことで「時宗」という確固たる宗派が成立した。
一遍の生涯を現代に伝える最も重要な史料が、国宝『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)である。これは一遍の死から10年後の正安元年(1299年)に、弟子の聖戒が詞書を記し、絵師の円伊(えんい)が描いた全12巻の絵巻物である。この絵巻は、一遍の遊行の足跡を追って日本各地の風景を描写しているが、名所旧跡の姿だけでなく、市(いち)の賑わい、武士の館、農民や非人の暮らしぶりなどが極めて写実的かつ精緻に描き込まれており、鎌倉時代の社会や民衆の生活を知る上で第一級の歴史資料として高く評価されている。