時衆 (じしゅう)
【概説】
鎌倉時代後期に、祖師である一遍の教えに従って諸国を遊行し、踊念仏を行った念仏修行者の集団。名帳と賦札を携えて無一物の生活を送り、のちに仏教の一宗派である「時宗」へと発展した中世の宗教共同体である。
一遍の遊行と「時衆」の誕生
鎌倉新仏教の一つである時宗の源流となったのが、一遍(いっぺん)の率いた「時衆」である。伊予国(愛媛県)の豪族出身である一遍は、比叡山や太宰府で浄土教を学んだ後、独自の信仰を模索した。1274(文永11)年、紀伊国の熊野本宮に参籠した際、熊野権現(阿弥陀如来の垂迹とされる)から「信不信、浄不浄を問わず、ただ念仏すれば往生できる」という神託(熊野啓示)を受け、全国を遍歴して人々に念仏を勧める遊行(ゆぎょう)の生活に入った。
一遍はこの遊行の過程で、出会った人々に「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と記した紙の札を配る賦札(ふだくばり)を行った。この一遍の徹底した「捨聖(すてひじり)」としての生き方に共鳴し、行動を共にした弟子や信徒の集団が「時衆」と呼ばれるようになった。
「時衆」の語源と中世の共同体秩序
「時衆」という言葉の由来は、仏教における「六時礼讃(ろくじらいさん)」に求められる。これは一昼夜(24時間)を6つの時間帯に分け、それぞれの時間(時)に交代で阿弥陀仏を礼拝・讃嘆する「時事(じじ)の衆」を意味していた。彼らは常に死(臨終)を意識し、一瞬一瞬を最期の時として念仏に励んだ。
時衆の集団は、徹底した無一物と平等の思想で貫かれていた。身分や階級、男女の区別を超えて「一房(いちぼう)」と呼ばれる移動式の共同体を形成し、所有を否定して旅を続けた。彼らの様子は、後に描かれた『一遍上人絵伝』(円伊画)などに、当時の民衆の姿とともに生々しく記録されている。
踊念仏の熱狂と「時宗」への展開
時衆の活動において、最も特徴的な布教方法が踊念仏(おどりねんぶつ)である。これは一遍が信濃国(長野県)の小田切の里で始めたとされるもので、鉦を叩きながら、法悦(宗教的な歓喜)のなかで激しく踊り狂いながら念仏を唱える。この踊念仏は、平安時代中期の空也の先例に倣ったものとされるが、一遍のもとで爆発的な民衆の支持を獲得し、各地で社会現象ともいえる熱狂を巻き起こした。
一遍自身は「一代不留(いちだいふりゅう)」を貫き、死に際して自身の著作をすべて焼き払い、宗派を立ち上げる意図を持たなかった。しかし、一遍の没後に弟子の真教(他阿弥陀仏)が、無秩序になりかけた時衆の集団を統制し、独自の教団として組織化した。これによって時衆は徐々に定住化・寺院化への道を歩み、江戸時代に幕府の宗教政策のもとで「時宗(じしゅう)」という正式な一宗派として公認されることとなる。