第1次日英同盟

高校日本史的重要度
★★★

【参考リンク】
日英同盟(Wikipedia)

第1次日英同盟

1902年

【概説】
1902年(明治35年)1月、極東におけるロシアの南下政策に対抗するため、日本とイギリスとの間で締結された軍事同盟。
世界最大の帝国であったイギリスが伝統的な「光栄ある孤立」政策を転換してアジアの新興国と結んだ対等な同盟であり、日本の国際的地位を飛躍的に高めるとともに、のちの日露戦争を遂行する上での決定的な後ろ盾となった。

締結の背景:ロシアの満州占領とイギリスの政策転換

1895年の三国干渉以降、極東において急速に勢力を拡大していたロシアは、1900年(明治33年)の義和団事件(北清事変)に乗じて大軍を満州(中国東北部)へ送り込み、事件終結後も撤兵せずに事実上の占領を続けた。ロシアの勢力が満州からさらに朝鮮半島へと及ぶことは、朝鮮半島を自国の生命線とみなす日本にとって、国家の存亡に関わる重大な脅威であった。

一方、中国の長江流域などに莫大な権益を有していたイギリスもまた、ロシアの南下政策に強い危機感を抱いていた。当時のイギリスは、他国と恒久的な同盟を結ばない「光栄ある孤立」(栄光ある孤立)を外交の基本方針としていたが、南アフリカ戦争(ボーア戦争)の泥沼化やドイツの台頭により、極東に十分な軍事力を振り向ける余裕を失っていた。そこでイギリスは、義和団事件の鎮圧において高い軍事力と規律を示した日本を極東におけるパートナーとして評価し、日本との提携によってロシアの膨張を抑止しようと図ったのである。

日本国内の路線対立:「日露協商論」と「日英同盟論」

ロシアの脅威にいかに対処するかをめぐっては、日本の政府・元老内部で激しい路線対立が生じた。筆頭元老の伊藤博文や井上馨らは、強大国ロシアとの正面衝突を避けるべきだと考え、ロシアの満州における優越権を認める代わりに、日本の韓国(朝鮮半島)における優越権を認めさせるという「日露協商論」(いわゆる満韓交換論)を主張した。

これに対し、時の首相である桂太郎や外相の小村寿太郎、元老の山県有朋らは、ロシアの膨張意欲は妥協によって食い止められるものではなく、たとえ満州を譲ってもいずれ韓国が脅かされると判断した。彼らは、世界最大の海軍力と経済力を持つイギリスと同盟を結ぶことでロシアを牽制し、万が一の開戦時にも有利な国際環境を確保すべきだとする「日英同盟論」を強く推した。最終的に、明治天皇の裁断もあって政府方針は日英同盟論に一本化され、1902年(明治35年)1月30日、ロンドンにおいて駐英公使・林董(はやしただす)とイギリス外相・ランスダウンの間で第1次日英同盟協約が調印された。

協約の主な内容と軍事的義務

第1次日英同盟協約(有効期間5年)の骨子は、相互の権益の承認と、有事における軍事的連携の規定にあった。まず、日英両国は清(中国)と韓国(大韓帝国)の独立と領土保全を維持することを宣言した上で、イギリスは清における権益を、日本は清における権益に加えて韓国における政治上・商業上・工業上の特殊な利益を有することを相互に承認した。

軍事面では、もし日英いずれか一方が上記の権益を守るために他国(事実上ロシアを想定)と戦争に入った場合、もう一方の締約国は「厳正中立」を守り、敵国に有利な行動をとらないことが定められた。さらに、もしその戦争に別の一国または数カ国(ロシアと同盟関係にあるフランスなどを想定)が敵側に参戦した場合には、もう一方の締約国も直ちに参戦して協同戦闘にあたる義務が明記された。なお、この第1次同盟の適用範囲は極東(清・韓国)に限定されており、イギリスが強く望んでいたインドへの適用が見送られた点も特徴である。

歴史的意義と日露戦争への影響

大英帝国が「光栄ある孤立」を破り、欧米以外の有色人種国家である日本と対等な立場で同盟を結んだことは、当時の国際社会に大きな衝撃を与え、日本の国際的地位を飛躍的に向上させた。日本国内でもこの同盟締結は熱狂的に歓迎され、各地で提灯行列が行われるなど国民の士気は大いに高まった。

そしてこの同盟は、2年後の1904年(明治37年)に勃発した日露戦争において決定的な役割を果たすこととなる。同盟の規定が存在したことで、ロシアと同盟を結んでいたフランスはイギリスとの全面戦争を恐れて参戦を断念し、日本はロシア一国のみを相手として戦うことができた。さらに、イギリスはロンドン市場における日本の巨額の戦時外債の引き受けや、ロシアのバルチック艦隊に関する情報提供など、金融・外交・情報のあらゆる面で日本を強力に支援した。第1次日英同盟は、まさに日本が日露戦争を戦い抜き、勝利を収めるための最大の国際的基盤となったのである。その後、同盟は適用範囲をインドに広げ攻守同盟へと強化された第2次日英同盟(1905年)、アメリカを対象から除外した第3次日英同盟(1911年)へと改定を重ね、1921年のワシントン会議で四カ国条約が成立するまで、約20年間にわたり日本外交の基軸であり続けた。

最終更新:
2026年10月5日 @ 17:42

日本史一問一答(ランダム)

Q. 安藤昌益が残した著書で、『自然真営道』とともに、身分制度を否定し万人直耕の社会を主張した書物は何か?
Q. 諸大名に1万石につき100石の米を上納させる代わりに、参勤交代の江戸滞在期間を半年に短縮した制度を何と呼ぶか。
Q. 岩倉使節団において、木戸・大久保・伊藤とともに副使を務めた肥前藩出身の人物は誰か?