日英同盟協約 (にちえいどうめいきょうやく)
【概説】
1902年(明治35年)、ロシア帝国の東アジアへの南下政策を警戒する日本とイギリスとの間で締結された軍事同盟。両国の清および韓国における特殊権益の承認と、第三国との交戦時における中立義務または参戦義務を規定し、その後の日本の国際的地位を飛躍的に高める契機となった歴史的条約である。
結成への背景:ロシアの脅威と「光栄ある孤立」の転換
日清戦争の講和条約である下関条約(1895年)の直後、ロシアはフランス・ドイツとともに三国干渉を行い、日本に遼東半島を還付させた。その後、ロシアはシベリア鉄道の建設を進めるとともに満州への軍事的進出を強化し、1900年の義和団の乱(北清事変)を機に満州を事実上占領するに至った。これにより、朝鮮半島への影響力拡大を目指す日本との間で緊張が極度に高まった。
日本国内では、伊藤博文や井上馨らがロシアとの妥協を図る「日露協商論(満韓交換論)」を唱えたのに対し、第1次桂太郎内閣の首相・桂太郎や外相・小村寿太郎らは、イギリスと結んでロシアに対抗する「日英同盟論」を主張した。一方、長らく「光栄ある孤立」(同盟を結ばない非同盟政策)を伝統的な外交方針としていたイギリスも、南アフリカでのボーア戦争による国力の消耗や、ロシアのアジア進出による自国の権益への脅威から、極東におけるロシアの「防波堤」として日本の軍事力を高く評価し、ついに孤立政策の放棄を決断したのである。
協約の成立と日露戦争における役割
1902年1月30日、ロンドンにおいて日本の林董(はやしただす)駐英公使とイギリスのランズダウン外相との間で日英同盟協約(第一次日英同盟)が調印された。内容は、清国および韓国の独立と領土保全を確認しつつ、両国の当該地域における特殊権益を相互に承認するものであった。また、一方が他の一国と交戦した場合は同盟国は「厳正中立」を守り、二国以上と交戦した場合には同盟国も「参戦義務」を負うことが規定された。
この条約は、1904年に勃発した日露戦争において絶大な効果を発揮した。ロシアの同盟国であったフランスは、参戦すればイギリスとの戦争に巻き込まれるため中立を余儀なくされた。さらに日本は、イギリスからの莫大な戦費調達(外債引き受け)や最新の軍艦の提供、インテリジェンス(情報提供)など全面的な支援を受け、大国ロシアに対する勝利への決定的な足掛かりを得たのである。
同盟の改定と攻守同盟への発展
日露戦争末期の1905年、講和条約(ポーツマス条約)の締結に先立って同盟は改定された(第二次日英同盟)。ここでは適用範囲がイギリスの植民地であるインドにまで拡大されたほか、交戦国が一国であっても同盟国は参戦する「攻守同盟」へと性質が強化された。また、この改定によってイギリスは日本の韓国に対する指導・保護・監理の権利(事実上の保護国化)を明確に承認し、日本が大陸へ進出する強力な後ろ盾となった。
その後、1911年に再改定(第三次日英同盟)が行われた。この時期になるとロシアの脅威は後退し、むしろ太平洋における日米関係の悪化が懸念され始めていた。イギリスはアメリカとの戦争に巻き込まれることを避けるため、「イギリスと包括的仲裁条約を結んでいる国(=アメリカ)に対しては、日本の同盟国として参戦する義務を負わない」とする条項が追加された。
第一次世界大戦とワシントン体制による終焉
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は第三次日英同盟を口実として連合国側で参戦した。日本軍はドイツの租借地であった中国の青島(チンタオ)や赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領し、地中海へも艦隊を派遣した。大戦後、日本はパリ講和会議を経て国際連盟の常任理事国となり、五大国の一角に名を連ねるまでに至った。
しかし、日本の台頭はアメリカの強い警戒を招いた。第一次世界大戦を経て世界最大の国力を有するようになったアメリカは、アジア太平洋地域における日本の膨張を抑え込むため、日英同盟の解体を強く要求した。1921年から1922年にかけて開催されたワシントン会議において、太平洋の島々に関する現状維持を定めた四カ国条約(日本・イギリス・アメリカ・フランス)が調印された。この条約の発効に伴い、20年以上にわたって日本外交の基軸であった日英同盟協約は、1923年に正式に失効した。これにより、日本の国際関係は二国間同盟から、多国間協調(ワシントン体制)へと大きく転換していくこととなる。