和人(シサム、シャモ)

高校日本史的重要度
★★

【参考リンク】

和人(シサム、シャモ)

【概説】
アイヌ民族が、本州などから交易や移住のために蝦夷地へと渡ってきた日本人を指して用いた呼称。本来は「隣人」を意味する対等な言葉であったが、歴史の進展に伴い、支配・被支配の関係性を映し出す言葉へと変質した。

「シサム」から「シャモ」への変遷と関係性の変質

アイヌ語において、本州から渡ってきた和人はもともと「シサム(あるいはシスミ)」と呼ばれていた。この言葉は「隣人」や「身近にいる大切な人」を意味し、当初は対等な交易相手としての親愛の情が含まれていた。しかし、中世から近世にかけて和人の進出が本格化し、政治的・経済的な格差が広がると、アイヌ社会に対する和人の不当な搾取や圧迫が顕著になった。こうした関係性の変質に伴い、「シサム」が訛った、あるいは派生したとされる「シャモ」という呼称が広まり、そこには和人に対する強い警戒感や敵意、蔑視のニュアンスが込められるようになった。言葉の変化は、和人とアイヌの関係が「対等な隣人」から「支配と被支配、あるいは対立」へと移行していった歴史を如実に物語っている。

鎌倉時代における安東氏の台頭と十三湊の交易

鎌倉時代に入ると、本州北部の津軽地方や羽後地方を拠点とする武士団の安東氏(安藤氏)が、鎌倉幕府のもとで「蝦夷沙汰職(蝦夷管領)」に任じられた。安東氏は、日本海交易の拠点である十三湊(じゅうさんみなと)を整備し、蝦夷地のアイヌ社会と本州の和人社会とを結ぶ交易を統制した。この時期の和人(主に商人や職人、一部の武士)は、アイヌがもたらすサケや昆布、鷹の羽、ラッコの皮などの北方産品を求め、本州からは鉄製品、米、漆器、絹織物などを輸出した。この段階における和人の活動は交易が中心であり、まだアイヌの生活圏を脅かす規模には達していなかったが、この時期に形成された流通網が、のちの和人の進出を先導することとなった。

和人地の形成とアイヌの抵抗運動

室町時代以降、和人は北海道南部の渡島半島を中心に定住化を進め、「道南十二館(どうなんじゅうにたて)」と呼ばれる軍事・交易の拠点を築いて活動範囲を広げた。この地域はのちに「和人地」と呼ばれるようになり、アイヌの生活圏(蝦夷地)との境界が画定されていく。しかし、和人の定住にともなう生活摩擦や不当な交易、生活資源の奪い合いは、アイヌの生存を脅かした。これに対してアイヌは武装蜂起をもって対抗し、1457年のコシャマインの戦いや、のちの江戸時代におけるシャクシャインの戦い(1669年)などが勃発した。これらの激しい抗争を経て、和人側の支配は松前藩へと一本化され、アイヌに対する経済的搾取と従属化が進行していくこととなった。

最終更新:
2026年10月1日 @ 14:47

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