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  • 裳階

    裳階

    【概説】
    仏堂や仏塔の軒下に取り付けられた、一見すると屋根のように見える庇(ひさし)状の装飾的建築部材。本来の屋根の下にさらに一重、壁面を取り囲むように付け加えられたもので、建物の構造を風雨から保護するとともに、外観の美しさを整え、建物を大きく壮麗に見せる役割を持つ。

    裳階の機能と構造的意義

    裳階は、木造建築の骨組み(軸部)を雨や風から保護するという極めて実用的な目的から生まれたものである。日本の気候は雨が多く、特に大型の木造建築物である仏堂や仏塔は、雨水による木材の腐食を防ぐ必要があった。軒下に差し掛け屋根のように裳階を設けることで、雨の吹き込みを防ぎ、柱や壁、土台の耐久性を大幅に高めることができた。

    また、実用面にとどまらず、建築物の視覚的な安定感や荘厳さを高める装飾的効果も重要であった。裳階を設けることで、本来は平屋(一重)の建物が二階建て(二重)に見えたり、三重の塔が六重の塔に見えたりする。これにより、建物の実際の階数以上に重厚で格式高い外観を演出することが可能となった。内部空間は一階のままであるため、吹き抜けの広大な空間を維持しつつ、外観のみを豪華にできる点も大きな特徴である。

    古代仏教建築における展開と「凍れる音楽」

    日本における裳階の導入は、仏教が伝来し、大陸(中国や朝鮮半島)の優れた建築技術が導入された飛鳥時代にさかのぼる。現存する最古の木造建築群である法隆寺の金堂や五重塔には、いずれも裳階(地覆)が取り付けられている。法隆寺金堂や五重塔の裳階は、当初の設計にはなく、後年の自重による傾きを防ぐための補強や、壁画などの内部を保護する目的で後から追加されたとする説が有力であり、古代の建築技術者が美観を損なわずに補強を行った知恵の結晶と言える。

    裳階を取り入れた建築の最高傑作として名高いのが、奈良時代初期(あるいは飛鳥時代の様式を色濃く残す)の薬師寺東塔である。この塔は三重の仏塔であるが、各層に裳階が施されているため、外観は六重の塔に見える。各層の「本屋根」と「裳階の屋根」が交互に大小の不規則なリズムを作り出しており、その軽快で美しい調和は、明治時代に日本美術を高く評価したアメリカの東洋美術史家フェノロサによって「凍れる音楽(あるいは、流れる音楽)」と称賛された。これは、裳階が単なる補強部材ではなく、優れた造形美を生み出すための不可欠な要素となっていたことを示している。

    中世禅宗様への継承と規格化

    飛鳥・奈良時代の古代建築において確立された裳階の技術と意匠は、時代を超えて中世にも引き継がれた。特に鎌倉時代、南宋から禅僧の渡来とともに伝わった禅宗様(唐様)の建築において、裳階は再び重要な役割を果たすことになる。

    禅宗様の代表的な仏殿(例:神奈川県・円覚寺舎利殿や東京都・正福寺地蔵堂)では、外観を一重裳階付き(外見は二重に見えるが内部は一重)とすることが定型となった。禅宗様特有の鋭く反り返る軒の曲線と裳階の組み合わせは、古代の建築とは異なる重厚かつダイナミックな美意識を表現した。このように、裳階は日本建築史において、時代ごとの新しい建築様式と融合しながら、実用性と審美性を両立させる伝統的な手法として継承され続けたのである。

  • 薬師寺式

    薬師寺式 (やくしじしき)

    7世紀末〜8世紀初頭

    【概説】
    飛鳥時代後期(白鳳期)に確立された、金堂の手前に東塔と西塔の二基の塔を左右対称に並び立たせる伽藍配置様式。それまでの「一塔」を中心とした配置から脱却し、仏教儀礼の変化や対称性の美学を具現化した点に特徴がある。天武天皇の発願による薬師寺造営を契機に登場し、古代日本の国家仏教における象徴的な建築デザインとなった。

    二塔式伽藍配置の登場とその構造的特徴

    薬師寺式伽藍配置の最大の特徴は、中心的な仏堂である金堂の手前(南側)に、東塔西塔と呼ばれる二基の三重塔を左右に対称に配した点である。中門から出た回廊が金堂や二つの塔を囲み、北側の講堂へと繋がる構造をとる。

    それ以前の伽藍配置では、飛鳥寺式(一金堂三塔)や四天王寺式(南北一列に塔と金堂が並ぶ)、法隆寺式(塔と金堂が左右に並列)のように、仏舎利(釈迦の遺骨)を安置する「塔」が寺院の中心、あるいは金堂と同等の権威を持っていた。しかし、薬師寺式にいたって塔は主役の座を金堂に譲り、金堂の本尊(薬師三尊像)を美しく引き立てるための装飾的・一対的な存在へと変化した。これは仏教が仏舎利信仰から、仏像(本尊)を本位とする信仰へと移行したことを示している。

    天武・持統朝の国家仏教と薬師寺建立

    この伽藍配置が生み出された背景には、天武天皇および持統天皇による強力な中央集権国家の形成と、それを支える国家仏教の推進がある。天武天皇9年(680年)、天武天皇は皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈念し、薬師寺の発願を行った。

    最初に造営されたのは藤原京の「本薬師寺」であり、その後の平城京遷都に伴って現在の奈良市西ノ京へと移転(平城薬師寺)された。本尊である薬師三尊像(薬師如来、日光菩薩、月光菩薩)の配置、すなわち中央の薬師如来を左右の脇侍が挟むという構成が、そのまま「金堂(本尊)」と「左右の二塔」という立体的な伽藍配置に投影されたと考えられている。天皇の権威と国家の平穏を仏力によって誇示するために、均整のとれた壮麗な対称美が求められたのである。

    白鳳文化の調和美と「凍れる音楽」

    薬師寺式伽藍配置を視覚的に象徴するのが、薬師寺に唯一創建当時から現存する東塔(国宝)である。この塔は三重塔であるが、各層に裳階(もこし)と呼ばれる飾り屋根が付いているため、一見すると六重の塔のように見える。

    大小の屋根が交互に重なり合うリズミカルな造形美は、大正から昭和期に活躍した哲学者・和辻哲郎らによって「凍れる音楽」と称えられた。初唐の建築様式の影響を受けつつ、独自の軽快さと均整美を生み出したこの建築は、飛鳥時代後期(白鳳文化)の極致を示すものである。この均整のとれた美意識が、左右対称を重んじる薬師寺式伽藍配置の基本理念となっている。

  • 薬師寺

    薬師寺

    680年発願

    【概説】
    天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して発願し、藤原京に建立された寺院。平城京遷都に伴って現在地である西ノ京に移転され、南都七大寺の一つとして栄えた。白鳳文化の粋を集めた東塔や薬師三尊像など、飛鳥時代後期から奈良時代の卓越した仏教美術を現代に伝える重要な文化遺産である。

    建立の背景と天武・持統朝の国家仏教

    680年(天武天皇9年)、天武天皇が鵜野讃良皇女(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して建立を発願した。当初は飛鳥の浄御原宮の周辺に造営が始められたが、天武天皇は寺の完成を見ずに崩御し、持統天皇、文武天皇の代に引き継がれて藤原京にて堂宇が完成を見た。この時期は、壬申の乱を経て強力な中央集権国家(律令国家)の建設が進められていた時代であり、仏教を国家鎮護のイデオロギーとして位置づける「国家仏教」が強力に推進されていた。薬師寺の建立は、大官大寺(のちの大安寺)などとともに、天皇の権威と国家の安泰を視覚的に示威する一大国家プロジェクトであった。

    平城京遷都と「本薬師寺」論争

    710年(和銅3年)の平城京遷都に伴い、薬師寺も新都の右京八条西四坊(現在の奈良市西ノ京町)に移転された。藤原京にあった元の薬師寺は本薬師寺(もとやくしじ)と呼ばれてしばらく存続したが、平安時代以降に次第に衰退し、現在は土壇や礎石を残すのみとなっている。一方、平城京の薬師寺にある東塔や薬師三尊像が、藤原京からそのまま移築・移坐されたものか、あるいは平城京で新たに造営・鋳造されたものかを巡っては、明治時代以降、建築史や美術史、考古学の分野で「移建論」と「非移建論(平城造営論)」という激しい論争が展開された。現在では発掘調査などの成果から、少なくとも東塔などの建築物については平城京で新築されたとする非移建論が定説となっている。

    白鳳文化を代表する建築と仏教美術

    薬師寺の伽藍配置は、金堂の手前に東塔・西塔の2つの仏塔を並立させる薬師寺式伽藍配置と呼ばれ、日本における寺院建築の発展過程を示す重要な様式である。現在、平城京造営当時から唯一残る建造物である東塔(国宝)は、各層に裳階(もこし)と呼ばれるひさしを持つため三重塔でありながら六重に見え、その律動的で美しい姿は「凍れる音楽」とも評されてきた。

    また、金堂に安置されている本尊の薬師三尊像(国宝)は、日本の金銅仏における最高傑作の一つとされている。豊満な肉体表現や流麗な衣文の造形には、初唐美術やインドのグプタ美術の影響が色濃く見られ、飛鳥時代後期(白鳳期)の白鳳文化を代表する仏像である。さらに、東院堂の聖観音菩薩立像や、麻布に描かれた独立の画像としては日本最古とされる吉祥天女画像なども、古代仏教美術の至宝として名高い。

    歴史的意義と現代への継承

    薬師寺は南都七大寺の一つとして奈良時代を通じて朝廷の厚い保護を受け、法相宗の大本山として日本の仏教教学の発展に大きく貢献した。平安時代以降は度重なる火災や戦国時代の兵火などにより、東塔や東院堂を除く多くの堂宇を失った。しかし、昭和時代後期から高田好胤管主による写経勧進などの尽力により、金堂、西塔、中門、大講堂などが次々と再建され、白鳳時代の壮麗な伽藍が現代に蘇った。1998年には「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産に登録され、日本古代国家の形成期における仏教文化の到達点を示す歴史的遺産として、今日でも極めて高い価値を有している。

  • 大官大寺(百済大寺・大安寺)

    大官大寺 (だいかんだいじ / 百済大寺:くだらのおおてら / 大安寺:だいあんじ)

    639年建立

    【概説】
    飛鳥時代に舒明天皇の発願によって建立された、日本最初の官立寺院。舒明朝の「百済大寺」に始まり、天武朝の「大官大寺」、平城京遷都後の「大安寺」へと移転・改称を繰り返しながら、律令国家における仏教界の最高位に君臨し続けた。

    日本初の「官寺」としての創立と百済大寺

    大官大寺の起源は、舒明天皇11年(639年)に建立が命じられた百済大寺(くだらのおおてら)に遡る。それ以前に存在した飛鳥寺(法興寺)や川原寺などは、蘇我氏をはじめとする有力氏族が私的に建立した「氏寺(うじでら)」の性格が強かった。これに対し百済大寺は、天皇の発願により国家の主導で造営された、日本初の「官寺(かんじ)」であった。

    建立地は諸説あるが、吉備池遺跡(奈良県桜井市)から巨大な寺院跡と九重塔の基壇が発見され、これが百済大寺の跡である可能性が極めて高まっている。当時の東アジアにおける百済との緊張関係や外交的背景、そして天皇の権威を国内外に示す象徴として、巨大な国家寺院の建立が必要とされたのである。

    天武・持統朝における国家仏教化と「大官大寺」への発展

    天武天皇の時代になると、中央集権的な律令国家の形成に伴い、仏教を国家統治の道具として位置づける「国家仏教」の政策が推し進められた。天武天皇は百済大寺を高市郡(現在の橿原市付近)に移転し、国家の筆頭寺院という意味を込めて大官大寺(だいかんだいじ)と改称した。

    さらに、持統天皇による藤原京への遷都に伴い、大官大寺は新都の東南に再び移転・再建された。藤原京における大官大寺は、薬師寺や本薬師寺などと並ぶ大伽藍を誇り、僧尼を統制するための官職である僧綱(そうごう)が置かれるなど、名実ともに諸寺を統括する国家仏教の中心地として機能した。

    平城京への遷都と「大安寺」としての隆盛

    和銅3年(710年)の平城京遷都に伴い、大官大寺は平城京左京へと移転され、ここで大安寺(だいあんじ)と改称された。この時、入唐留学生として唐の仏教を学んで帰国した僧・道慈(どうじ)が造営を主導した。道慈は唐の都・長安の「大極楽寺」などを模した先駆的な唐風の伽藍配置(大安寺式伽藍配置)を導入し、巨大な東西の七重塔を擁する大寺院を完成させた。

    奈良時代の大安寺は、東大寺や興福寺などと並び南都七大寺の一つに数えられ、日本で最も国際的な「学問寺」となった。インド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)や、唐の僧・道璿(どうせん)、林邑(ベトナム)の仏哲(ぶってつ)ら外来僧が居住し、最先端の仏教教理や文化を日本に伝える拠点となった。このように、百済大寺から大官大寺、そして大安寺へと至る変遷は、日本が氏族社会から東アジア標準の律令国家へと成長していく過程と密接に連動していたのである。

  • 舒明天皇

    舒明天皇 (じょめいてんのう)

    593年〜641年

    【概説】
    飛鳥時代前期(在位629年〜641年)の第34代天皇。推古天皇の崩御後に起きた皇位継承争いを経て即位し、日本最初の遣唐使派遣や、初の官寺(国家の寺院)とされる百済大寺の建立を主導した。その後の大化の改新や律令国家建設を担うこととなる中大兄皇子(天智天皇)や大海人皇子(天武天皇)の父にあたり、古代国家の形成期において極めて重要な系譜上の位置を占める天皇である。

    皇位継承をめぐる確執と蘇我蝦夷による擁立

    推古天皇36年(628年)、推古天皇は後継者を明確に指名しないまま崩御した。これにより、聖徳太子(厩戸王)の子であり人望の厚かった山背大兄王(やましろのおおえのおう)を推す勢力と、敏達天皇の孫である田村皇子(たむらのおうじ)を推す勢力との間で激しい皇位継承争いが発生した。

    当時、朝廷の実権を掌握しつつあった大臣の蘇我蝦夷(そがのえみし)は、自らの血統に近く扱いやすい田村皇子の擁立を画策した。蝦夷は山背大兄王を支持する境部摩理勢(さかいべのマリセ)らを排斥し、強引に田村皇子を即位させた。これが舒明天皇である。この皇位継承劇は、蘇我氏の権勢が天皇をも凌駕しつつあった状況を示すものであり、のちの山背大兄王一族の滅亡や、中大兄皇子らによる乙巳の変(645年)へとつながる政治的緊張の契機となった。

    第1回遣唐使の派遣と東アジア外交の刷新

    舒明天皇の治世における最大の功績の一つが、舒明天皇2年(630年)に行われた第1回遣唐使の派遣である。大使には犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らが任命された。それまでの遣隋使が「日出ずる処の天子…」に象徴される対等外交を志向したのに対し、隋に代わって中国大陸を統一した強大な唐(618年建国)に対しては、伝統的な冊封・朝貢体制を前提としつつも、より実利的な情報・文化の吸収を目指した。

    この第1回派遣を皮切りに、多くの留学生や留学僧が中国へと渡った。彼らが唐の進んだ国家制度(律令制)や仏教、儒教を学び、のちに帰国して大化の改新をはじめとする政治改革のブレイン(国博士など)となったことは、日本の国家形成において計り知れない意義を持つ。

    初の官寺「百済大寺」の建立と律令国家への伏線

    舒明天皇11年(639年)、天皇は百済川のほとりに「百済大寺(くだらのおおてら)」の建立と、百済宮の造営を命じた。それまでの飛鳥寺(法興寺)や四天王寺などは、蘇我氏や聖徳太子といった特定の有力豪族や王族の「氏寺」としての色彩が強かった。これに対し、百済大寺は天皇の発願によって建てられた、日本で最初の官寺(国家寺院)であるとされる。

    この百済大寺の建立は、仏教を個人の信仰や一族の繁栄のためのものから、天皇を中心とする国家の鎮護(鎮護国家)のためのものへと昇華させる試みであった。同寺はのちに高市大寺、大官大寺と名称や場所を変え、平城京遷都に際しては大安寺となって、国家仏教の中核的役割を担い続けた。また、后である宝皇女(のちの皇極・斉明天皇)との間に生まれた中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)は、父・舒明天皇の目指した天皇中心の集権国家構想を、のちの律令国家の完成という形で実現していくこととなる。

  • グプタ様式

    グプタ様式

    4世紀〜6世紀頃

    【概説】
    古代インドのグプタ朝において開花した、仏教美術の古典的完成を示す彫刻および絵画の様式。薄い衣が濡れたように身体に密着し、均整の取れた肉体美を精神性豊かに表現する特徴を持ち、中国を経由して日本の飛鳥・白鳳文化の仏像制作にも多大な影響を与えた。

    古典的調和と官能的美の融合

    グプタ様式は、4世紀から6世紀にかけて北インドを支配したグプタ朝の庇護のもとで成立した。それまでのガンダーラ美術に見られたギリシャ・ヘレニズム風の厚い写実的な衣文表現と、マトゥラー美術のインド的な力強い肉体表現が融合し、高度に洗練された古典的様式へと昇華したものである。

    特にサールナートから出土した仏像に代表されるように、まるで濡れた衣服が肌に張り付いているかのような極めて薄い衣の表現(湿衣彫刻)や、装飾を極限まで削ぎ落とし、瞑想的で内省的な表情を浮かべる仏面など、精神の静謐さと肉体の官能的な美しさが見事に調和している点が最大の特徴である。

    シルクロードを経た日本への伝播と「白鳳美術」

    このグプタ朝で完成した仏像様式は、中央アジア(シルクロード)を経て中国の南北朝時代(特に北斉や北周)や隋・唐の美術に強い影響を与えた。中国では、衣服が水から上がったばかりのように体に密着する表現が「曹衣出水」と呼ばれ珍重された。

    日本においては、7世紀後半の飛鳥時代後期(白鳳文化)から奈良時代にかけて、唐代の美術を経由する形でこの様式が受容された。その代表例が、奈良・薬師寺東院堂の聖観音立像である。その直立する美しい体躯と、薄い衣を通して透けて見えるかのような肉体表現には、グプタ様式の遠い残照が明瞭に認められる。また、法隆寺金堂壁画に描かれた菩薩像の豊かな肉体表現や陰影法にも、グプタ朝のアジャンター石窟寺院壁画に源流を持つ技法が息づいている。

  • 初唐

    初唐 (しょとう)

    618年〜712年

    【概説】
    中国の唐王朝における、建国から8世紀初頭(玄宗の即位前)までの初期の時代区分。中央集権的な律令国家の体制が確立した時期であり、日本においては飛鳥時代後半の白鳳文化の形成に決定的な影響を与えた文化・社会の源泉。

    中国史における「初唐」の画期と特色

    唐朝(618〜907年)の歴史において、初代高祖から太宗による「貞観の治」、高宗期、そして中国史上唯一の女帝である武則天(則天武后)の武周時代を経て、玄宗が即位する(712年)までを「初唐」と区分する。この約1世紀の間、唐は前代の隋の遺産を受け継ぎながら、律令制度、均田制、府兵制、科挙制度などを整備し、強力な中央集権国家の土台を築き上げた。

    文化面では、南朝由来の洗練された貴族文化と、北朝の質実剛健な遊牧民的要素が融合し、力強く新進気鋭の気風が生まれた。文学では「初唐の四傑」(王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王)らが活躍し、後に最盛期を迎える「盛唐」の漢詩(李白や杜甫など)へとつながる近体詩の格律を完成させた時期でもある。

    白鳳文化への直接的影響と国家形成の連動

    日本(倭国)において初唐の動向は、7世紀後半の天武天皇・持統天皇の時代(白鳳文化期)に最も強く投影された。それまでの隋や朝鮮半島を介した間接的な受容(飛鳥文化)とは異なり、遣唐使の派遣や、白村江の戦い(663年)での敗戦による国家危機の経験から、唐の最先端の政治制度や文化を直接的に、かつ急速に模倣・摂取するようになった。

    特に、天皇を中心とする中央集権的な「律令国家」の建設を急ぐ天武・持統朝にとって、初唐の均田制や官僚制、戸籍制度(庚午年籍・庚寅年籍)は格好の手本であった。政治の仕組み(後の大宝律令など)のみならず、都市計画としての都城制(藤原京)の導入も、初唐の長安城の構造が強い刺激となって進められた。

    造像美術と文学にみる初唐様式の受容

    初唐文化の影響は、日本の仏教美術や文学にも顕著な足跡を残している。美術分野では、それまでの硬直的で古風な北魏様式(飛鳥仏)から脱却し、初唐美術の特色である写実的でふくよかな肉体表現や、衣服の柔らかな質感を取り入れた仏像が数多く制作された。その代表例が、薬師寺東院堂の聖観音立像や、薬師寺金堂の薬師三尊像法隆寺金堂壁画などである。これらは、初唐様式の若々しく瑞々しい美意識を、日本的に消化した傑作とされる。

    文学においても、天武・持統期の皇族や貴族たちが初唐の漢詩の格律を学び、詩作を競い合った。これがのちに、日本最古の漢詩集である『懐風藻』の結実へとつながっていく。このように、初唐は日本の古代国家が自立した東アジアの一員として、政治的・文化的な骨格を形成する上での最大のモデルとなった時代であった。

  • 白鳳文化

    白鳳文化 (はくほうぶんか)

    645年〜710年

    【概説】
    飛鳥時代後期にあたる7世紀後半から8世紀初頭にかけて花開いた日本の文化。天武天皇・持統天皇の時代に最盛期を迎え、唐の初期(初唐)文化の影響を受けた、若々しく大らかな気風を特徴とする。律令国家の形成期を背景に、国家仏教の展開や和歌の確立など、日本独自の国家と文化の基礎が築かれた重要な転換期である。

    律令国家の形成と「白鳳」の時代背景

    白鳳文化は、645年の大化の改新から710年の平城京遷都に至る、飛鳥時代後期の文化を指す。なお、「白鳳」という名称は『日本書紀』などの正史には見られない私年号(美称)の一つに由来し、のちに美術史などの分野でこの時期の文化区分として定着した。

    この時代は、663年の白村江の戦いでの敗北という対外的な危機を契機として、日本が中央集権的な国家体制の構築を急いだ時期である。特に、672年の壬申の乱に勝利して即位した天武天皇およびその皇后である持統天皇の時代には、強力な天皇中心の権力体制が確立した。白鳳文化は、こうした天皇の権威を高め、新興の律令国家を威容づけるための国家的な文化事業という側面を強く持っていた。

    初唐文化の受容と国家仏教の展開

    白村江の戦い以降、日本は一時的に唐との関係が悪化したものの、やがて関係を修復し、遣唐使の派遣を再開した。また、滅亡した百済や高句麗からの亡命知識人らを通じても、中国の初唐や朝鮮半島(特に統一新羅)の最新の文化がもたらされた。前期の飛鳥文化が朝鮮半島の三国や南北朝時代の中国の影響を受けていたのに対し、白鳳文化はより直接的に、統一帝国である唐の洗練された文化を受容している点が特徴である。

    また、仏教政策においても大きな転換が見られた。飛鳥時代には蘇我氏などの有力豪族が私的に氏寺を建立していたが、白鳳期には国家が主体となって寺院を建立・保護する国家仏教の形が整えられた。天皇や国家の安泰を祈願するため、大官大寺(のちの大安寺)や薬師寺などの壮大な官大寺が次々と造営され、仏教は国家鎮護のイデオロギーとして深く根付いていった。

    彫刻・絵画に見る若々しさと写実性

    美術の分野において、白鳳文化は前代の飛鳥文化の厳格さや抽象的な表現から脱却し、初唐美術の影響を受けた丸みのある柔和で自然な肉体表現へと移行した。仏像の顔立ちは童顔で親しみやすく、「白鳳の微笑」とも形容される若々しく大らかな表情が特徴である。

    代表的な彫刻としては、金銅仏の最高傑作とされる薬師寺金堂薬師三尊像や、白鳳期の瑞々しい造形美を示す興福寺仏頭(旧山田寺薬師如来像)、さらに法隆寺阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)や法隆寺夢違観音像などが挙げられる。

    絵画においても、インドのグプタ様式が西域・唐を経て伝わったとされる法隆寺金堂壁画(1949年の火災で焼損)や、高句麗や唐の壁画古墳の影響を色濃く残す高松塚古墳壁画(四神や極彩色豊かな男女群像が描かれる)など、国際色豊かで高度な技法を用いた傑作が誕生した。

    文学の夜明けと国史編纂の開始

    白鳳期は、漢字の本格的な使用と日本語の文字化が進み、文学が大きく飛躍した時代でもある。知識人の間では漢詩文の教養が重んじられる一方で、漢字の音訓を用いて日本語を表記する万葉仮名の工夫が進み、和歌が独自の文学形式として確立した。

    万葉集』の第1期・第2期にあたるこの時代には、額田王柿本人麻呂といった優れた宮廷歌人が活躍した。特に柿本人麻呂は、天皇の神聖さや国家の威信を讃える長歌を完成させ、「歌聖」と称された。

    さらに、律令国家としての正統性を内外に主張し、天皇の支配の由来を明確にするため、天武天皇の発意によって『古事記』や『日本書紀』の編纂事業が開始された。このように、白鳳文化は美術や建築のみならず、思想や文学の面においても、その後の日本文化の骨格を形作った極めて重要な時代であったと言える。

  • 文武天皇

    文武天皇 (もんむてんのう)

    683年〜707年

    【概説】
    天武天皇の孫であり、701年に大宝律令を制定して日本の律令体制を完成させた第42代天皇。祖母である持統天皇の強力な後盾を得て異例の若さで即位し、藤原不比等らを重用して国家形成を推し進めた。その治世において国号を「日本」と定めるなど、古代国家の転換点となる極めて重要な役割を果たした。

    異例の若き天皇の誕生と藤原不比等の台頭

    文武天皇(即位前の名は珂瑠皇子=かるのみこ)は、天武天皇と持統天皇の皇太子であった草壁皇子を父とし、阿閇皇女(後の元明天皇)を母として生まれた。父・草壁皇子が即位前に早世したため、祖母の持統天皇が中継ぎとして即位し、珂瑠皇子の成長を待った。697年、わずか15歳で祖母から譲位を受けて即位したが、これは天皇の生前退位(譲位)による初の皇位継承であり、また当時としては異例の若さであった。

    この即位の背景には、天武天皇の直系血統(皇統)を維持しようとする持統天皇(太上天皇として後見)の強い意志と、それを実務面で支えた藤原不比等の台頭があった。不比等は自身の娘である藤原宮子を文武天皇の夫人とし、後に皇室と藤原氏の間に強力な外戚関係を築き上げていく基盤を作った。

    大宝律令の制定と律令国家の完成

    文武天皇の治世における最大の歴史的意義は、701年(大宝元年)の大宝律令の制定である。天武天皇の代から進められていた法制整備を受け継ぎ、刑部親王や藤原不比等らに命じて編纂させた。これにより、刑法にあたる「律」と行政法・民法にあたる「令」が揃った日本初の本格的な成文法典が完成し、天皇を頂点とする中央集権的な官僚体制(二官八省制)が法的に確立された。

    また、この年に「大宝」という元号を建てたが、これは日本で初めて断絶することなく制度として定着した元号の始まりともされる。大宝律令の施行によって、飛鳥時代から続いた政治改革は結実し、日本の律令国家としての体制は事実上の完成を見たのである。

    遣唐使の再開と「日本」国号の成立

    内政における律令制の完成とともに、外交面でも大きな転換期を迎えた。文武天皇は702年(大宝2年)、粟田真人を執節使として遣唐使を派遣した。これは663年の白村江の戦い以来、約30年ぶりとなる唐への正式な使節派遣であった。

    この遣唐使の主な目的は、大宝律令を携えて唐の承認を得るとともに、東アジアの国際社会に対して日本の国家体制が整ったことをアピールすることにあった。この使節の派遣において、唐の側から従来の「倭」に代わる新たな国号である「日本」が正式に認められたとされ、対外的な独立国家としてのアイデンティティが確立された点でも歴史的意義は大きい。

    早世と天皇家直系継承の苦難

    国家体制の基礎を強固に固めた文武天皇であったが、生来病弱であり、707年(慶雲4年)にわずか25歳で崩御した。彼と藤原宮子との間に生まれた首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)はまだ幼かったため、直系継承を維持するための中継ぎとして、文武天皇の母である元明天皇、さらに姉の元正天皇が相次いで女性天皇として即位することとなった。

    文武天皇の早世は、結果的に8世紀前半の皇位継承をめぐる政治的権力闘争や、藤原氏が外戚として政治を主導していく土壌を作ることになった。しかし、彼が治世中に築き上げた律令制と「日本」という国家の枠組みは、その後の奈良時代、ひいては日本の歴史を通じて長く機能し続けることとなったのである。

  • 日本(国号)

    日本(国号)

    7世紀後半 – 8世紀初頭

    【概説】
    7世紀後半から8世紀初頭にかけて、「倭」に代わって公式に定められた我が国の国号。白村江の戦い後の対外危機のなかで、律令国家の形成や天皇号の成立と並行して制定されたものである。中国を中心とする東アジアの国際秩序において、独立した国家としての意識を対外的に示す重要な意義を持っていた。

    「倭」から「日本」への転換

    古くから中国の史書において、日本列島の国家や人々は「倭」や「倭国」と呼ばれていた。これは中華思想に基づく中国側からの他称であり、周辺の異民族を見下すようなニュアンスを含んでいたとされる。ヤマト王権が国内の統一を進めるなかでも、対外的には「倭の五王」に代表されるように長らく「倭王」を称し、中国の冊封体制下に入っていた。しかし、7世紀後半に至り、国家体制の整備が進むにつれて、自らの国を指す固有の自称としての新たな国号が必要とされるようになった。

    白村江の戦いと国家意識の覚醒

    国号変更の直接的な契機となったのは、東アジア情勢の激変である。663年の白村江の戦いにおいて唐・新羅の連合軍に大敗した倭国は、国家存亡の危機に直面した。天智天皇・天武天皇・持統天皇の時代を通じて、唐の侵攻に備えるための防衛体制の構築と、強力な中央集権国家の建設が急務となった。672年の壬申の乱を経て権力を集中させた天武天皇の時代には、飛鳥浄御原令の編纂が進められるなど、律令国家の形成が本格化した。この国家立て直しの過程で、確固たる主権国家としての自立性を示すべく、新たな国号の制定が模索されたのである。

    「日本」の由来と中国史書における記述

    「日本」という名称は、「日の本」すなわち「太陽の昇る東の国」を意味する。これは、推古天皇の時代に聖徳太子(厩戸王)が隋の煬帝に宛てた国書における「日出づる処」という表現にも見られるように、中国大陸から見て東方に位置するという地理的意識に基づいている。中国の正史である『旧唐書』東夷伝には、倭国が自らの名が優雅でないことを嫌い、「日本」と改めたこと、あるいは日本という小国が倭国を併合したなどと記されている。実際に中国側に「日本」という国号が公式に認知されたのは、702年に派遣された第八次遣唐使(執節使・粟田真人ら)によるものが最初であると考えられている。当時、唐(武周)の則天武后の朝廷において、新たな国号が正式に伝えられた。

    「天皇」号の成立と大宝律令による確定

    国号の変更は、従来の「大王(おおきみ)」に代わる「天皇」という君主号の成立と表裏一体の出来事であった。天武・持統朝にかけて天皇号が成立し、中国の「皇帝」と対等な存在であるという強い自立意識が示された。そして、701年(大宝元年)に制定された大宝律令において、「日本」という国号が法的に明文化され、名実ともに新たな国家体制が完成した。このように、「日本」という国号の誕生は単なる名称の変更にとどまらず、古代日本の国家が東アジアの国際社会において独立した律令国家として歩み始めたことを象徴する、極めて重要な歴史的画期であったといえる。