舒明天皇 (じょめいてんのう)
【概説】
飛鳥時代前期(在位629年〜641年)の第34代天皇。推古天皇の崩御後に起きた皇位継承争いを経て即位し、日本最初の遣唐使派遣や、初の官寺(国家の寺院)とされる百済大寺の建立を主導した。その後の大化の改新や律令国家建設を担うこととなる中大兄皇子(天智天皇)や大海人皇子(天武天皇)の父にあたり、古代国家の形成期において極めて重要な系譜上の位置を占める天皇である。
皇位継承をめぐる確執と蘇我蝦夷による擁立
推古天皇36年(628年)、推古天皇は後継者を明確に指名しないまま崩御した。これにより、聖徳太子(厩戸王)の子であり人望の厚かった山背大兄王(やましろのおおえのおう)を推す勢力と、敏達天皇の孫である田村皇子(たむらのおうじ)を推す勢力との間で激しい皇位継承争いが発生した。
当時、朝廷の実権を掌握しつつあった大臣の蘇我蝦夷(そがのえみし)は、自らの血統に近く扱いやすい田村皇子の擁立を画策した。蝦夷は山背大兄王を支持する境部摩理勢(さかいべのマリセ)らを排斥し、強引に田村皇子を即位させた。これが舒明天皇である。この皇位継承劇は、蘇我氏の権勢が天皇をも凌駕しつつあった状況を示すものであり、のちの山背大兄王一族の滅亡や、中大兄皇子らによる乙巳の変(645年)へとつながる政治的緊張の契機となった。
第1回遣唐使の派遣と東アジア外交の刷新
舒明天皇の治世における最大の功績の一つが、舒明天皇2年(630年)に行われた第1回遣唐使の派遣である。大使には犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らが任命された。それまでの遣隋使が「日出ずる処の天子…」に象徴される対等外交を志向したのに対し、隋に代わって中国大陸を統一した強大な唐(618年建国)に対しては、伝統的な冊封・朝貢体制を前提としつつも、より実利的な情報・文化の吸収を目指した。
この第1回派遣を皮切りに、多くの留学生や留学僧が中国へと渡った。彼らが唐の進んだ国家制度(律令制)や仏教、儒教を学び、のちに帰国して大化の改新をはじめとする政治改革のブレイン(国博士など)となったことは、日本の国家形成において計り知れない意義を持つ。
初の官寺「百済大寺」の建立と律令国家への伏線
舒明天皇11年(639年)、天皇は百済川のほとりに「百済大寺(くだらのおおてら)」の建立と、百済宮の造営を命じた。それまでの飛鳥寺(法興寺)や四天王寺などは、蘇我氏や聖徳太子といった特定の有力豪族や王族の「氏寺」としての色彩が強かった。これに対し、百済大寺は天皇の発願によって建てられた、日本で最初の官寺(国家寺院)であるとされる。
この百済大寺の建立は、仏教を個人の信仰や一族の繁栄のためのものから、天皇を中心とする国家の鎮護(鎮護国家)のためのものへと昇華させる試みであった。同寺はのちに高市大寺、大官大寺と名称や場所を変え、平城京遷都に際しては大安寺となって、国家仏教の中核的役割を担い続けた。また、后である宝皇女(のちの皇極・斉明天皇)との間に生まれた中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)は、父・舒明天皇の目指した天皇中心の集権国家構想を、のちの律令国家の完成という形で実現していくこととなる。