乾元大宝

958年に鋳造され、事実上日本で最後に発行された皇朝十二銭の12番目の銅銭は何か?
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重要度
★★

乾元大宝 (けんげんたいほう)

958年

【概説】
958年(天徳2年)に村上天皇の治世下で発行された銅銭。708年の和同開珎から始まった皇朝十二銭の最後を飾る貨幣であり、これ以降、日本国内で独自の公鋳貨幣が約250年間にわたり途絶える契機となった歴史的貨幣である。

皇朝十二銭の終焉と乾元大宝の品質劣化

平安時代中期の958年、村上天皇の「天暦の治」の時代に乾元大宝は鋳造された。これは、奈良時代の和同開珎から連綿と続いてきた本邦自製の銅銭(皇朝十二銭)の12番目、すなわち最後の貨幣にあたる。当時の朝廷は、国家の威信を示すため、また財政収入を補填するために新貨の発行を急いだが、この時期の国内の銅産出量は極度に低下していた。そのため、乾元大宝の鋳造にあたっては鉛の混入率が非常に高くなり、鋳造技術の衰退も相まって、文字が辛うじて判別できる程度の極めて粗悪な品質となってしまった。

貨幣信用の失墜と「物品貨幣」への回帰

朝廷は新銭を発行する際、流通を促進し国家的な利益を得る目的で、これまでの旧銭に対して新銭に「10倍の価値」を持たせるというデノミネーション(強制的価値設定)を繰り返していた。しかし、度重なる新貨発行のたびに自国貨幣の質は低下し、価値の乱高下が続いたため、庶民のみならず貴族層の間でも貨幣に対する信用は完全に失墜した。これにより、人々は金属貨幣の使用を敬遠し、代わりに価値の安定した米や絹、布といった物品貨幣を取引の媒介として用いる「銭離れ」が急速に進行した。

公鋳貨幣の途絶と空白の250年

乾元大宝の発行後、流通機能がほぼ麻痺したことを受け、朝廷はこれ以上の新銭鋳造を維持できなくなり、貨幣政策を放棄せざるを得なくなった。その結果、日本ではこれ以降、12世紀後半(平安末期から鎌倉初期)に平氏政権や日宋貿易などを通じて中国から宋銭が大量に流入し、本格的な「貨幣経済の復活」を果たすまで、約250年間にわたり政府の手による貨幣が一度も造られないという、東アジアの歴史上でも極めて特異な貨幣の空白期を迎えることとなった。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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