冷泉天皇 (れいぜいてんのう)
【概説】
平安時代中期の第63代天皇。村上天皇の第二皇子で、母は藤原師輔の娘・安子。精神的な病を抱えていたとされ、その短い治世の間に藤原氏による他氏排斥事件である「安和の変」が発生した。
皇位継承をめぐる懸念と奇行の背景
冷泉天皇は、容姿端麗であったと伝えられる一方で、幼少期から精神的な病による奇行が目立ったとされる。一日中絵を描き続けたり、屋根の上に登って降りられなくなったりするなど、天皇としての資質を疑問視する声は当時から存在した。父である村上天皇も東宮(皇太子)への指名を躊躇したとされるが、強力な権勢を誇った外戚の藤原師輔らの後押しにより、わずか4歳で立太子された。
967年の村上天皇の崩御に伴い即位したが、病状のために自ら政務を執ることは難しく、関白として藤原実頼(師輔の兄)が実権を握ることとなった。このように、天皇の心身の衰弱は、藤原氏が摂政・関白として政治の主導権を握る「摂関政治」の体制化をなし崩し的に推し進める要因となった。
安和の変と早期の譲位
冷泉天皇の治世において最も重大な歴史的事件が、969年(安和2年)に発生した安和の変である。この事件は、冷泉天皇の弟である為平親王が次期東宮(皇太子)に立てられることを恐れた藤原氏が、為平親王を支持する左大臣・源高明に謀反の疑いをかけて失脚させたものである。源高明は太宰権帥へ左遷され、代わって別の弟である守平親王(のちの円融天皇)が東宮に立てられた。
安和の変の終結直後、冷泉天皇は即位からわずか2年で守平親王に譲位し、上皇(太上天皇)となった。この事件を最後に、藤原氏を脅かす強力な他氏は朝廷から排除され、藤原北家による摂関政治の基礎が盤石なものとなった。譲位後の冷泉上皇は、病を抱えながらも寛弘8年(1011年)に62歳で崩御するまで、40年以上の長きにわたって院を維持し続けた。