日光東照宮

徳川家康を祀るため、3代将軍家光の代に極彩色彫刻の権現造で大改築された神社は何か。
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重要度
★★★★

日光東照宮

1617年創建

【概説】
江戸幕府の初代将軍である徳川家康を「東照大権現」として祀る神社。3代将軍徳川家光の時代に極彩色の彫刻を施した権現造の社殿へと大改築され、寛永期建築を代表する豪壮華麗な遺構となっている。

徳川家康の神格化と創建の経緯

日光東照宮の歴史は、元和2年(1616年)の徳川家康の死去に端を発する。家康は自らの死後について、「遺骸は駿河の久能山に納め、一周忌が過ぎた後に下野の日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」との遺言を残した。これにより、まずは久能山に埋葬されたが、その後、家康をいかなる神号で祀るかを巡って幕府内で論争が起きた。

臨済宗の金地院崇伝(以心崇伝)が豊臣秀吉の「豊国大明神」に倣い「明神」号を主張したのに対し、天台宗の僧である南光坊天海は「権現」号を主張した。2代将軍徳川秀忠は天海の意見を採用し、家康には山王一実神道に基づく「東照大権現」という神号が朝廷から贈られた。元和3年(1617年)、家康の遺骸は日光山に改葬され、ここに日光東照宮が創建された。家康が日光を鎮座地に選んだのは、江戸の真北(北極星の位置)に鎮座することで、関東ひいては日本全土を永遠に鎮護する守護神となることを意図したためとされている。

徳川家光による「寛永の大造替」

創建当初の日光東照宮は、家康の「小さな堂を建てよ」という遺命に従い、比較的質素な造りであった。しかし、祖父である家康を「神」として深く崇拝した3代将軍徳川家光は、寛永11年(1634年)から寛永13年(1636年)にかけて、巨額の幕府資金を投じて社殿の大規模な改築を行った。これを「寛永の大造替(かんえいのだいぞうたい)」と呼ぶ。

この大工事にあたっては、大工棟梁の甲良宗広(こうらむねひろ)や幕府御用絵師の狩野探幽(かのうたんゆう)など、当時の最高峰の職人や芸術家が全国から動員された。幕府の圧倒的な財力と権力を背景に、金箔や漆、極彩色の彫刻がふんだんに用いられ、現在見られるような絢爛豪華な社殿群が完成したのである。

寛永期文化を代表する建築様式と装飾

日光東照宮の建築は、桃山文化の豪壮な気風を受け継ぎつつも、より技巧的で装飾性を極めた寛永期文化の代表作である。社殿の建築様式は、本殿と拝殿を一段低い「石の間」で連結する権現造(ごんげんづくり)が採用されており、これ以降、全国の神社建築における権現造の普及に多大な影響を与えた。

特に有名なのが、一日中見ていても飽きないことから「日暮門」とも呼ばれる陽明門(ようめいもん)である。門全体に故事成語や聖人、霊獣などの精巧な彫刻が500点以上も施されている。また、左甚五郎の作と伝えられる「眠り猫」や、「見ざる、言わざる、聞かざる」で知られる「三猿」など、動物を用いた彫刻には、戦乱の世が終わり平和な時代が到来したことを象徴する深い意味が込められている。

幕藩体制における政治的・宗教的意義

日光東照宮は単なる宗教施設にとどまらず、江戸幕府の権威を象徴する最大の聖地として機能した。歴代の将軍は定期的に日光社参を行い、諸大名にも多大な負担を強いる形での参詣や造営・修復の助役(お手伝普請)が命じられ、これらは大名統制の一環としても機能した。

さらに、朝廷からは毎年、例祭に際して公家である日光例幣使(にっこうれいへいし)が派遣され、天皇が東照大権現に奉幣を行う形式がとられた。これは幕府と朝廷の良好な関係を示すと同時に、幕府の政治的優位性を誇示する装置となった。また、外交面では、朝鮮通信使やオランダ商館長も日光へ招かれることがあり、東アジア世界における徳川将軍家の威信と、平和をもたらした神としての家康の存在を国内外にアピールする役割を果たしたのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 遠国奉行の一つで、伊勢神宮の警衛や門前町の支配、伊勢・志摩の幕領の管轄を行った役職は何か?
Q. 部屋の換気や採光のために鴨居の上に設けられた空間に、豪華な透かし彫りなどを施した装飾(彫刻)を何というか?
Q. 八省のうち、外国の使節の接待や、寺院・僧尼の管理、氏族の系譜(戸婚など)の管理を行った省は何か?