劉少奇

大躍進政策の失敗後、毛沢東に代わって国家主席となり経済の立て直しを図ったが、文化大革命で「走資派」として失脚した人物は誰か?
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【参考リンク】
劉少奇(Wikipedia)

劉少奇 (りゅうしょうき)

1898年~1969年

【概説】
中華人民共和国の政治家で、同国の第2代国家主席。毛沢東の主導した「大躍進」政策の失敗後、現実主義的な経済調整政策を推進して国家経済の再建にあたったが、のちに勃発したプロレタリア文化大革命において最大の標的とされ、非業の死を遂げた悲劇の指導者である。

大躍進政策の破綻と経済調整路線の推進

1950年代末、毛沢東の主導のもとで強行された急進的な社会主義化政策である「大躍進」は、未曾有の大飢饉と経済の壊滅的打撃(数千万人の餓死者を出したとされる)という未曾有の惨禍を引き起こした。この危機を収拾するため、1959年に毛沢東に代わって国家主席に就任したのが劉少奇である。

劉少奇は、党総書記の鄧小平らとともに実務派(現実主義派)として国政の主導権を握り、崩壊寸前であった中国経済の建て直しに着手した。彼は「三自一包」と呼ばれる緩和政策を導入し、農民に対して自留地(私有地)の保有や副業の営み、自由市場での取引を一部容認するなど、資本主義的要素を限定的に取り入れた。この現実的な「経済調整」政策により、中国の農業および工業生産は急速に回復を遂げることとなった。

文化大革命での失脚と昭和期日本への歴史的連関

しかし、劉少奇ら実務派が推進した調整路線は、毛沢東が掲げる「絶えざる階級闘争」や社会主義的純潔性の保持というイデオロギーと鋭く対立することとなった。毛沢東は、実務派の台頭によって自身の権力が形骸化することを恐れ、また中国がソ連のような「修正主義(資本主義への後退)」に陥ることを警戒した。これを背景に、1966年、毛沢東は青少年(紅衛兵)を動員してプロレタリア文化大革命(文革)を発動した。

劉少奇は「中国のフルシチョフ」「資本主義の道を歩む実権派(走資派)の総帥」として最大の批判対象となり、国家主席の地位を剥奪され、党からも永久追放された。過酷な暴行と監禁、適切な医療の拒絶といった迫害の末、1969年に孤立無援の中で病死した(彼の名誉回復は毛沢東死後の1980年まで待たねばならなかった)。

同時代の日本(昭和時代)との関わりにおいては、劉少奇や鄧小平らが主導した調整期の柔軟な対外姿勢が、1962年のLT貿易(廖承志と高碕達之助の間で交わされた日中覚書貿易)の成立を背後から支えていた。文化大革命の進展とともに日中間の実務的な対話ルートは一時的に破壊されたが、文革の終結後に鄧小平が推進した「改革開放」政策の精神は、まさに劉少奇とともに実践した調整政策が源流となっている。劉少奇の現実主義的な試みは、戦後日本と中国がのちに本格的な国交正常化と経済協力関係へと踏み出すための、重要な歴史的前哨戦であったと位置づけることができる。

劉少奇批判プロレタリア文化大革命労農兵文選 (人民双書6)

文化大革命の渦中にあって激しい思想的対立と激動の政治情勢を映し出す、歴史的資料的価値の高い記録の一冊。

劉莉の目で見た日本

現代日本社会の細部を中国人女性の鋭い観察眼で切り取り、多角的な視点からその本質を捉え直した異色の考察書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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