後深草天皇 (ごふかくさてんのう)
【概説】
鎌倉時代中期の第89代天皇。父である後嵯峨天皇の意向によって弟の亀山天皇への譲位を余儀なくされ、のちの持明院統の祖となった人物。この皇位継承をめぐる確執が、皇室を二分する「両統迭立」の契機となり、後の南北朝の動乱や室町時代の政治構造に決定的な影響を及ぼした。
後嵯峨院政と皇位継承の確執
後深草天皇は、寛元元年(1243年)に後嵯峨天皇の第二皇子として生まれた。寛元4年(1246年)、父・後嵯峨天皇の譲位に伴ってわずか4歳で即位した。しかし、政権の実権は「治天の君」である後嵯峨上皇(のちに法皇)が握る院政が敷かれていた。後嵯峨法皇は、後深草天皇よりもその同母弟である恒仁親王(のちの亀山天皇)を深く寵愛し、正元元年(1259年)に後深草天皇に対して恒仁親王への譲位を迫った。これにより、第90代天皇として亀山天皇が即位することとなる。後深草上皇にとって、この強制的ともいえる譲位は不本意極まりないものであり、のちの皇室分裂の不満の源泉となった。
持明院統の形成と両統迭立の端緒
文永9年(1272年)に後嵯峨法皇が崩御する際、次代の治天の君や皇室領の処分について明確な遺言を残さず、その裁定を鎌倉幕府に委ねた。幕府は法皇の意思を「亀山天皇の系統(のちの大覚寺統)を正統とする」と解釈したため、後深草上皇の系統は皇位継承から排除される危機に瀕した。これに対し、後深草上皇は幕府に強く抗議し、出家をほのめかすなどして不満を示した。この事態に対し、幕府は朝廷の分裂を避けるため調停に乗り出し、建治元年(1275年)に後深草上皇の皇子である熈仁親王(のちの伏見天皇)を皇太子に立てることに成功した。これにより、後深草上皇の御所であった持明院に由来する「持明院統」が確立され、大覚寺統と交互に皇位に就く両統迭立(りょうとうてつりつ)の原則が成立することとなった。
南北朝動乱・室町時代への歴史的影響
後深草天皇を祖とする持明院統と、亀山天皇を祖とする大覚寺統の対立は、単なる皇室内の確執にとどまらず、朝廷の官僚グループや地方武士の勢力争いとも結びつき、政治の不安定化を招いた。のちに大覚寺統から即位した後醍醐天皇による建武の新政とその崩壊を経て、持明院統は室町幕府を開いた足利尊氏と提携し、京都の北朝を形成することとなる。したがって、後深草天皇の時代に端を発した皇位継承問題は、鎌倉時代の朝廷政治を揺るがしただけでなく、のちの南北朝の動乱や室町幕府を巻き込んだ全国規模の戦乱を引き起こす直接的な契機となったという点で、日本中世史における極めて重要な転換点であった。