持明院統 (じみょういんとう)
【概説】
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて形成された、後深草天皇を祖とする皇室の血統。亀山天皇を祖とする大覚寺統と皇位や皇室領をめぐって激しく対立し、のちの北朝を形成して室町幕府と結びついた。
持明院統の成立と背景
鎌倉時代中期の1246年、後嵯峨天皇は長男の後深草天皇に譲位したが、のちに後深草を強引に退位させ、自らが寵愛する次男の亀山天皇を即位させた。1272年、後嵯峨法皇が次代の治天の君(実質的な皇室の当主)を指名せずに崩御すると、鎌倉幕府の裁定により亀山天皇の親政が認められた。
これに強い不満を抱いた後深草上皇の血統は、京都の持明院(現在の京都市上京区にあった邸宅)を御所としたことから「持明院統」と呼ばれるようになった。一方の亀山天皇の血統は「大覚寺統」と呼ばれ、ここに皇室は二つの系統に分裂することとなった。
大覚寺統との対立と両統迭立
持明院統と大覚寺統の対立は、単なる皇位継承権の争いにとどまらず、莫大な経済的基盤である皇室領の相続をめぐる争いでもあった。持明院統は、後白河法皇に由来する巨大な荘園群である「長講堂領」を継承し、これを基盤として大覚寺統(八条院領を継承)と対抗した。
両統の激しい対立を見かねた鎌倉幕府は、調停に乗り出し、両系統から交互に天皇を即位させる両統迭立(りょうとうてつりつ)の原則を提示した。これにより、持明院統からは伏見天皇や後伏見天皇などが即位したが、皇位継承のたびに幕府の介入を招くこととなり、結果的に朝廷の権威低下と武家政権の優位を決定づける要因となった。
南北朝の分裂と北朝への移行
鎌倉時代末期、大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を打倒して建武の新政を開始したが、武士層の不満を招き短期間で崩壊した。後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏は京都を制圧し、1336年に持明院統の光明天皇を擁立して室町幕府を開いた。
一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れて独自の朝廷を開き、ここに南北朝時代が幕を開けた。室町幕府に擁護されて京都に存続した持明院統の朝廷は「北朝」と呼ばれ、吉野の南朝(大覚寺統)と約半世紀にわたって軍事・政治的な対立を繰り広げた。
南北朝合一とその後
1392年、室町幕府第3代将軍・足利義満の斡旋により、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇(持明院統)に三種の神器を譲渡する形で、南北朝合一(明徳の和約)が成立した。
この和約では再び両統迭立が条件とされていたが、合一後、幕府と結びついた持明院統(北朝)はこれを反故にし、皇位を独占し続けた。これにより大覚寺統は歴史の表舞台から姿を消し、持明院統の血統がその後の皇室の正統として確立された。現在の皇室へと連なる系統も、この持明院統に由来している。