中ソ対立(論争) (ちゅうそたいりつ(ろんそう)
【概説】
1950年代後半から表面化した、社会主義陣営の二大国であるソビエト社会主義共和国連邦と中華人民共和国の間の深刻な対立。当初のイデオロギー論争から国家間の軍事対立へと発展し、東西冷戦の構造を大きく変容させた。日本においては、左翼運動の分裂や、日中国交正常化をはじめとする戦後外交の展開に決定的な影響を及ぼした。
対立の勃発と「平和共存」をめぐる論争
1950年に中ソ友好同盟相互援助条約を結び、強固な同盟関係にあった両国であったが、1956年のソ連共産党第20回大会におけるフルシチョフのスターリン批判と、資本主義陣営との「平和共存」路線の打ち出しを機に亀裂が生じた。中華人民共和国の毛沢東は、これをマルクス・レーニン主義の原則をねじ曲げる「修正主義」として激しく批判し、自らの革命理論の正統性を主張した。
この論争は単なる理論闘争にとどまらず、ソ連による対中技術援助の打ち切りや、1969年の珍宝島(ダマンスキー島)での国境紛争(中ソ国境紛争)といった軍事衝突にまで発展し、社会主義陣営の分裂を決定づけた。
日本の革新運動・社会運動への波及
中ソ対立は、隣国である日本の革新陣営や社会運動に極めて深刻な混乱と分裂をもたらした。当時、戦後日本の革新勢力を牽引していた日本共産党や日本社会党は、ソ連と中国のどちらを支持するか、あるいはどのような距離を置くかをめぐって内部対立を露呈した。
特に日本共産党内では、親ソ派や親中派がそれぞれ分派を結成して激しく対立した。これに対し、党中央は両国からの介入を拒絶し、独自の革命路線を進む自主独立路線を確立することとなった。また、大衆的な盛り上がりを見せていた原水爆禁止運動においても、中ソ双方の核政策や世界戦略をめぐる対立が日本国内の運動組織に持ち込まれた結果、原水協(日本原水爆被害者団体協議会などが中心)から親ソ派・親中派などが分裂・対立する事態を招き、社会運動全体の退潮の一因となった。
日本外交の転換とアジア冷戦の変容
中ソの決定的な対立は、アメリカ合衆国による「中国封じ込め政策」の転換を促し、1972年のニクソン訪中による劇的な米中接近をもたらした。この激変は「ニクソン・ショック」として日本外交にもただちに波及した。
時の佐藤栄作内閣の後を継いだ田中角栄内閣は、この情勢変化に対応して同年に日中国交正常化を電撃的に実現した。この背景には、ソ連との対立において北方の脅威を強く意識した中国側が、安全保障上の観点から対日・対米接近を急いだという側面があった。その後、1978年に締結された日中平和友好条約の交渉過程においては、第三国の覇権主義に反対する「覇権条項」の明記を求めた中国側(ソ連を念頭に置く)と、極東でのソ連との過度な摩擦を避けたい日本政府との間で緊迫した外交交渉が展開された。このように、中ソ対立は冷戦期後半における日本の安全保障および対アジア外交の骨格を規定する重要な背景となったのである。