全日本産業別労働組合会議(産別会議)

1946年に結成され、共産党系の指導下で過激な労働争議を主導した、左派の労働組合の全国中央組織は何か?
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重要度
★★

全日本産業別労働組合会議(産別会議) (ぜんにほんさんぎょうべつろうどうくみあいかいぎ)

1946〜1958年

【概説】
太平洋戦争後の1946年に結成された、日本共産党の強い影響下にあった左派系労働組合の全国中央組織(ナショナルセンター)。激化する戦後の労働運動を主導して一時は巨大な勢力を誇ったが、GHQの方針転換や内部対立を経て急速に衰退した。

結成の背景と「左派ナショナルセンター」としての台頭

第二次世界大戦後の日本において、GHQ(連合国軍総司令部)による民主化政策、なかんずく五大改革指令の一つとして「労働組合の結成促進」が掲げられた。これにより、日本国内では爆発的に労働組合運動が展開されることとなった。こうした中、1946年8月に結成されたのが全日本産業別労働組合会議(産別会議)である。

産別会議は、同一産業の労働者を一つの組合に組織する「産業別組織」の原則を掲げ、全逓(全逓信従業員組合)や国鉄総工、全日本炭鉱労働組合など、官公庁や基幹産業の現業労働者を中心に組織された。同時期に結成され、日本社会党の右派を支持基盤とした日本労働組合総同盟(総同盟)が労資協調的な温和路線をとったのに対し、産別会議は日本共産党の強い影響下にあり、階級闘争的かつ戦闘的な左派路線を鮮明にして戦後初期の労働運動をリードした。

2・1ゼネストの挫折と「逆コース」による打撃

産別会議は激しいインフレーションと食糧難に苦しむ労働者を組織し、賃上げや吉田茂内閣の打倒を叫んで攻勢を強めた。その頂点となったのが、1947年2月1日に計画された2・1ゼネスト(二・一ゼネラル・ストライキ)である。産別会議を中心とする共同闘争委員会は数百万人の労働者を動員し、官公庁から民間まで全産業の停止を企てた。

しかし、スト突入直前にGHQ最高司令官マッカーサーが発した中止命令により、ゼネストは挫折に追い込まれた。この出来事は日本の労働運動史における大きな転換点となった。これ以降、東西冷戦の激化を背景に、GHQは日本を「東側陣営に対する防波堤」とするため、労働運動の過激化を抑制する「逆コース」へと方針を転換する。1948年には国家公務員法などの改正により公務員のストライキ権が全面的に剥奪され、産別会議はその主力部隊であった官公庁労働者の闘争力を大きく削がれることとなった。

内部分裂と「総評」結成による終焉

2・1ゼネストの挫折は、産別会議内部における日本共産党による硬直的な指導体制への不満を噴出させた。1947年末からは、共産党の支配を排除し「民主的で健全な労働運動」を目指す産別民主化同盟(民同)の運動が台頭し、内部分裂が決定定的となった。

さらに1950年には、GHQの意向も受けて左派・右派を包括した新たなナショナルセンターである日本労働組合総評議会(総評)が結成される。民同系組合はこぞって総評へと移行し、同時期に行われたレッド・パージ(赤色追放)によって共産党系の活動家が職場から追放されたことも重なり、産別会議は急速に組織力を失っていった。その後、かつての勢力を完全に失った産別会議は、1958年に正式に解散し、その歴史に幕を閉じた。産別会議の興亡は、戦後日本の労働運動が戦闘的な階級闘争から、企業別・労資協調的な枠組みへと再編されていく過程を象徴する出来事であった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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