国権回復運動
【概説】
第一次世界大戦後の中国において高まった、帝国主義支配からの脱却を目指すナショナリズム運動。不平等条約の撤廃、関税自主権の回復、租界の回収などを掲げて展開された。東アジアにおける帝国主義的権益の維持を図る日本にとって、対中外交のあり方を揺るがす重大な契機となった。
第一次大戦後の東アジア秩序と「革命外交」の台頭
第一次世界大戦後の東アジアでは、ワシントン会議によって新たな国際秩序(ワシントン体制)が形成され、中国の主権尊重や領土保全がうたわれた。しかし、中国が被っていた不平等条約による制約は温存されたままであった。これに対し、1919年の五四運動を契機として、中国の民衆や知識人の間で反帝国主義・主権回復を求めるナショナリズムが急速に台頭した。
1920年代に入ると、中国国民党と中国共産党の連携(第一次国共合作)による「国民革命」の動きと連動し、外交的手段や民衆運動を通じて不当な権益を回収しようとする「革命外交(国権回復運動)」が本格化した。中国側は、関税自主権の回復、治外法権の撤廃、租界や租借地の返還などを強く要求。1925年の五・三〇事件による大規模な反帝ストライキや、1926年からの蒋介石による北伐の過程で、イギリスが管理していた漢口や九江の租界を実力で回収するなど、具体的な成果を上げ始めた。
日本の「幣原外交」と不干渉政策の動揺
中国における国権回復運動の激化は、隣国であり中国国内に膨大な権益(特に関東州や南満洲鉄道)を保持していた日本に大きな衝撃を与えた。当時、大正デモクラシー期から昭和初期にかけて外相を務めた幣原喜重郎は、英米との協調を重視し、中国の内政には干渉せず、経済的進出を優先する「協調外交(幣原外交)」を展開した。
幣原は、中国の主権を一定程度尊重し、穏健な形での関税自主権の容認などを模索した。しかし、北伐の進展に伴って国権回復運動が過激化し、1927年に居留民が襲撃される南京事件などが発生すると、日本の国内世論や陸軍、政友会などの対外強硬派は、幣原の姿勢を「軟弱外交」であると激しく非難し、積極的な武力介入を求める声を強めていった。
「田中外交」への転換と日中対立の激化
1927年、憲政会(民政党)内閣の崩壊にともない、立憲政友会の田中義一内閣が成立すると、日本の対中政策は「積極外交(田中外交)」へと大きく舵を切った。田中は、中国における日本の特殊権益、特に「満蒙(満洲・内蒙古)」を国権回復運動の波から隔離・防衛することを図った。
田中内閣は、国民革命軍の北伐を阻止し居留民を保護することを名目に、3度にわたる山東出兵を強行。1928年には済南事件を引き起こして現地で中国軍と武力衝突した。さらに、満洲の軍閥である張作霖に対して妥協を迫るなど、強硬な姿勢に終始した。こうした日本の軍事介入は、中国における反日感情を決定的に悪化させ、中国側による日貨排斥(日本製品のボイコット)運動をより一層激化させる結果となった。
中国の国権回復運動は、最終的に日本の陸軍や右翼勢力の中に「満蒙の危機」という強い焦燥感を植え付けることになり、これが1931年の満洲事変、ひいては日中戦争へとつながる武力侵略路線の引き金となった点で、近代日中関係史における重大な転換点であったといえる。