ビスマルク
【概説】
19世紀後半に強力な指導力でドイツ統一を成し遂げたドイツ(プロイセン)の宰相。伊藤博文らが憲法調査で渡欧した際、彼から君主権の強い国家体制のあり方を学んだ。新興国であったドイツの歩みは、後発近代国家として富国強兵を目指した明治初期の日本における国家のグランドデザインに、決定的な影響を与えた。
岩倉使節団との邂逅と現実主義への共鳴
明治維新直後、不平等条約の改正と西洋文明の視察を目的に派遣された岩倉使節団は、1873年(明治6年)に建国間もない新興国ドイツ帝国を訪問した。そこで大久保利通や伊藤博文らは、初代帝国宰相であるビスマルクと面会する。ビスマルクは彼らに対し、「万国公法(国際法)は列強が自国の利益のために主張する建前にすぎず、小国が独立を保つためには自らの実力(軍事力と国力)を養うしかない」という、冷徹な現実主義(リアルポリティクス)に基づく助言を与えた。
欧米列強の圧倒的な脅威に直面していた明治の指導者たちにとって、小国プロイセンから「鉄と血」によって大帝国を作り上げたビスマルクの言葉は極めて説得力があった。この出来事は、万国公法という理想に対する日本の幻想を打ち砕き、その後の明治政府が強力な中央集権化と富国強兵路線へと邁進する重要な原体験となった。
伊藤博文の渡欧とプロイセン・モデルの選択
明治14年の政変を経て、政府は10年後の国会開設を約束し、近代憲法の制定が急務となった。1882年(明治15年)、伊藤博文は憲法調査のために渡欧する。伊藤は、イギリスのような議院内閣制(君主の権限が弱い体制)やフランスのような急進的な民主主義ではなく、君主の権限が強く、議会に対して行政府が優越するドイツ(プロイセン)の立憲体制に着目した。
伊藤はベルリン大学のグナイストやウィーン大学のシュタインから国家学を学ぶとともに、ビスマルクとも再び交流を持っている。ビスマルクは伊藤に対し、議会や政党政治の行き過ぎを牽制し、君主を中心とした強力な行政権を確保することの重要性を説いた。この指導は、後発国が列強に対抗して短期間で国力を築き上げるための理論的裏付けとなり、伊藤の憲法構想に決定的な方向性を与えたのである。
大日本帝国憲法と日本近代化への影響
ビスマルクが構築したドイツ帝国の国家体制は、日本の近代化と中央集権化を進めるための最適なモデルとして導入されることになった。帰国した伊藤博文が中心となって起草し、1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法は、強力な天皇大権を規定し、議会の権限を制限する「外見的立憲主義」の色彩を帯びたものとなった。
さらに、官僚制の構築や軍の統帥権の独立など、明治国家を支える諸制度の多くにプロイセン型のシステムが採用された。ビスマルクという同時代の巨大な政治家の存在とその政治哲学は、直接的・間接的に明治日本の国家デザインに深く浸透し、日本の近代化からその後の帝国主義的な発展の軌道に至るまで、極めて重大な影響を及ぼしたと言える。