プロシア憲法(プロイセン憲法)

伊藤博文が日本の憲法を制定するにあたり、最も理想的であるとして手本(モデル)にした君主権の強いドイツの憲法を何というか?
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★★★

プロシア憲法(プロイセン憲法)

1850年

【概説】
君主の権力が極めて強く、議会の権限が制限されたドイツ(プロイセン)の憲法。19世紀後半の明治政府が近代国家建設を進めるにあたり、大日本帝国憲法を起草する際の最大のモデルとなった。

外見的立憲主義とプロイセン憲法の特徴

1848年の三月革命を経て、1850年にプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世によって制定された欽定憲法である。最大の特徴は、議会制度や国民の権利といった近代的な外観を備えながらも、実質的には君主(国王)に極めて強大な権力が集中している点にある。このような体制は外見的立憲主義と呼ばれる。

同憲法下では、議会は君主の立法権に協賛する機関に留まり、内閣も議会ではなく君主に対してのみ責任を負っていた。また、軍隊の統帥権が議会や内閣の統制から独立して君主に直属する点も、国家運営において重要な意味を持つ特徴であった。

明治政府の憲法構想と伊藤博文の渡欧

19世紀後半の日本において、自由民権運動の高まりとともに憲法制定は急務となっていた。政府内では、大隈重信がイギリス型の議院内閣制を主張したのに対し、伊藤博文を中心とする専制支配の維持を図る勢力はこれと対立し、1881年の明治十四年の政変で大隈を政府から追放した。その後、政府は天皇の権力を強力に保持しつつ近代国家の体裁を整えるための憲法モデルを模索し、ドイツに注目した。

1882年、憲法調査のためにヨーロッパへ派遣された伊藤博文は、ベルリン大学のグナイストやウィーン大学のシュタインといった著名な法学者から国家学の講義を受けた。伊藤は彼らの教えを通じて、君主権の強いプロシア(プロイセン)憲法こそが日本の国情や皇室のあり方に最も適しているとの確信を得て帰国した。

大日本帝国憲法への継承と歴史的意義

帰国した伊藤博文は、井上毅やドイツ人お雇い外国人ロエスレルらとともに起草作業にあたり、1889年に大日本帝国憲法を発布した。この憲法にはプロシア憲法の特徴が色濃く反映されており、天皇を神聖不可侵の主権者とし、統治権を総攬する強大な天皇大権が規定された。また、国民(臣民)の権利は「法律の範囲内」という制限付き(法律の留保)で保障され、議会(帝国議会)の権限も限定的であった。

とくにプロシア憲法から模倣された統帥権の独立(軍隊の指揮命令権が内閣や議会から独立し天皇に直属する制度)は、のちの昭和期において軍部の独走を許す最大の法的根拠となり、日本の近現代史に多大な影響を及ぼすこととなった。プロシア憲法をモデルとしたことは、日本がアジア初の立憲国家として条約改正などの外交的課題を達成するための強力な基盤となった一方で、その権威主義的な側面がその後の国家の針路を大きく決定づけたといえる。

口語訳 日本国憲法・大日本帝国憲法 (新人物文庫)

現代語訳により二つの憲法を比較し、歴史的背景と思想の変遷を読み解くための入門に最適な一冊。

英訳 憲法義解 The commentaries on the Constitution of the Empire of Japan (呉PASS復刻選書5)

明治憲法の草案者である伊藤博文による解説を英訳とともに収録した、立憲政治の原点を知る重厚な書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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