積極外交(強硬外交)

田中義一内閣が、それまでの幣原喜重郎による協調外交を批判して転換した、武力行使も辞さない対中国の強硬な外交方針を何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
幣原外交(Wikipedia)

積極外交(強硬外交) (せっきょくがいこう(きょうこうがいこう)

1927年〜1929年

【概説】
昭和初期の田中義一内閣が推進した、満蒙における日本の権益を武力を用いてでも維持・拡大しようとした対中国強硬外交方針。前代の幣原協調外交を「軟弱」と批判して展開され、山東出兵や張作霖爆殺事件を引き起こして日本の中国大陸進出を本格化させる契機となった。

幣原協調外交からの転換と「東方会議」

大正デモクラシー期、憲政会および立憲民政党内閣の外相を務めた幣原喜重郎は、ワシントン体制の枠組みを維持し、中国の内政には干渉せず、経済的進出を図る「協調外交(幣原外交)」を展開していた。しかし、1920年代後半に中国国民党の蒋介石による北伐(中国統一事業)が本格化し、中国国内で主権回収や反帝国主義運動が高まると、日本の満蒙(満州・内モンゴル)における特殊権益や現地居留民の安全が脅かされる事態となった。これに対し、野党であった立憲政友会や軍部、枢密院、右翼勢力などは、幣原の対応を「軟弱外交」であると激しく非難した。

1927(昭和2)年、金融恐慌の最中に成立した立憲政友会の田中義一内閣(首相が外相を兼任)は、この協調外交を放棄し、武力行使をも辞さない「積極外交」へと舵を切った。同年6月から7月にかけて、田中外相は外務省や陸海軍、関東軍の幹部を集めて東方会議を開催。ここで合意された「帝国対支政策綱領」では、中国本土と満蒙を切り離して捉え、特に満蒙の権益に対しては「治安維持」の名目でいつでも武力を行使するという強硬な姿勢が明文化された。

山東出兵と強硬外交の破綻

積極外交の具体化として行われたのが、計3回にわたる山東出兵である。田中内閣は、北伐軍の北上から現地居留民を保護することを口実に、1927年から1928年にかけて山東省へ兵力を送り込んだ。特に1928年の第2次出兵では、蒋介石の北伐軍と日本軍が武力衝突する済南事件が発生し、日中両国に多数の死傷者を出した。これにより、中国市民の間で反日感情と日本製品排斥運動が爆発的に高まることとなった。

さらに田中内閣は、満州を支配する親日派軍閥の張作霖を利用して、満蒙での鉄道敷設権などの利権拡大を狙った。しかし、北伐軍に敗れて満州へ撤退する張作霖が日本の思い通りに動かなくなると、関東軍の高級参謀・河本大作大佐らは、軍の独断で満州を直接支配下に置くことを画策し、1928年6月に張作霖爆殺事件(満州某重大事件)を引き起こした。

田中首相は当初、昭和天皇に対して犯人を軍法会議にかけて厳罰に処すと報告したものの、陸軍内の「身内を処罰するな」という強い反発に屈し、最終的には処分を曖昧にしてうやむやにしようとした。この二枚舌的な対応に激怒した昭和天皇から厳しく叱責された田中は、内閣総辞職に追い込まれた。田中内閣が推し進めた積極外交は、中国のナショナリズムを過度に刺激して日中関係を決定的に悪化させただけでなく、のちの満州事変へとつながる「軍部の独走(出先軍人の暴走)」を抑えきれなくなるという、重大な政治的禍根を残す結果となった。

田中義一 総力戦国家の先導者

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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