国家公務員法(改正) (こっかこうむいんほう(かいせい)
【概説】
政令201号を受けて1948年12月に成立した、国家公務員の争議権と団体交渉権を全面的に否認した法律の改正。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の意向を背景に、過激化する官公庁の労働運動を抑止することを目的とした。戦後の占領政策が「民主化」から「経済復興・反共」へと転換(逆コース)する象徴的な出来事である。
冷戦の激化とマッカーサー書簡
第二次世界大戦後の占領初期、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は日本の民主化を進めるため、労働組合の結成や労働運動を積極的に奨励した。しかし、劣悪な経済状況の中で官公庁労働者(官公労)を中心に労働運動が過激化し、1947年には大規模な二・一ゼネストが計画される事態に至った。このゼネストはマッカーサーの命令で中止されたものの、その後も労働運動の勢いは衰えなかった。
同時代、世界規模で東西冷戦が激化する中、アメリカ政府は日本を「東アジアの反共の砦」として自立させる方向へと占領政策を転換した。こうした背景のもと、1948年7月22日、GHQ最高司令官のマッカーサーは芦田均首相に対し、公務員の労働基本権を制限するよう促す書簡(マッカーサー書簡)を送付した。これを受けた日本政府は、直ちに暫定措置として政令201号を公布し、公務員のストライキを禁止した。
改正国家公務員法の成立と内容
政令201号による暫定措置を恒久的な法制度とするため、1948年11月、第3回臨時国会において国家公務員法(改正)が成立、翌12月に施行された。この法改正により、国家公務員の労働基本権(労働三権)のうち、団結権は一部認められたものの、争議権(ストライキ権)と団体交渉権(労働協約締結権)が全面的に剥奪された。
その代わりに、公務員の勤務条件の改善を図る代償措置として、内閣から独立した第三者機関である人事院の権限が大幅に強化された。これにより、公務員の賃金や労働条件は労働協約ではなく、人事院が政府や国会に対して行う「人事院勧告」に基づいて決定される仕組みが確立された。また、現業部門(専売、郵政、国鉄など)の職員については、12月に制定された公共企業体等労働関係法(公労法)によって、同様に争議権が否定された。
労働運動への打撃と憲法上の議論
国家公務員法の改正は、戦後の日本の労働運動にとって決定的な打撃となった。当時、労働運動の主軸を担っていた官公労がストライキ権を奪われたことで、運動全体の勢力は一時的に減退し、のちの「レッド・パージ(赤狩り)」へとつながる端緒となった。
また、この改正は日本国憲法第28条が保障する「労働基本権(団結権・団体交渉権・団体行動権)」の侵害にあたるのではないかという憲法上の疑義を生じさせ、戦後日本の司法や法学界において長きにわたり激しい論争の対象となった。のちの最高裁判所判決(全逓東京中郵事件や全農林警職法事件など)においても、公務員の争議権制限の合憲性をめぐる判断が二転三転するなど、戦後民主主義における基本的人権と「公共の福祉」の関係を問う極めて重要な契機となった。