兵庫
【概説】
1858年の日米修好通商条約によって開港が約束された、摂津国の要衝たる港湾都市。天皇の居住する京都に近いことから朝廷や攘夷派の激しい抵抗に遭い、実際の開港は予定より遅れて明治維新直前の1868年となった。
条約上の「兵庫」と開港延期問題
江戸幕府が1858(安政5)年に結んだ日米修好通商条約(および安政五カ国条約)において、兵庫は神奈川(横浜)、長崎、新潟、箱館とともに開港場の一つに指定された。当初の予定では1863(文久3)年に開港されるはずであったが、これに激しく反発したのが京都の朝廷や尊王攘夷派の志士たちであった。
兵庫は京都への距離が近く、瀬戸内海から大坂・京都へと至る海上交通の要衝であった。この地に外国人居留地が作られ理外の徒が雑居することは、朝廷の防衛上の脅威になるだけでなく、王城の地を汚すものとみなされた。幕府は国内の激しい排外世論と朝廷の強い反対を前に、イギリスなどの諸外国に対して開港の延期を要請した。交渉の結果、1862(文久2)年のロンドン覚書などにより、兵庫の開港は1868年1月1日(慶応3年12月7日)まで5年間延期されることとなった。
兵庫沖来航と開港勅許の成立
開港延期の間にも幕末の政局は混迷を極めた。1865(慶応元)年、イギリス公使パークスをはじめとする英仏米蘭の四国艦隊は、兵庫沖(大坂湾)に軍艦を派遣して武力デモを行った(兵庫沖来航)。彼らは条約の勅許と兵庫の早期開港、関税率の改定などを幕府に強硬に要求した。
この圧力に危機感を抱いた幕府は朝廷と交渉し、まずは通商条約自体の勅許(国許)を得ることに成功したが、兵庫の開港自体は依然として留保された。その後、将軍となった徳川慶喜の執拗な朝廷工作により、開港予定日の約半年前である1867(慶応3)年5月、ようやく兵庫開港の勅許が下りた。これにより、幕府による開港引き延ばし政策は終わりを告げた。
「兵庫開港」と実際の神戸開港
1867年12月7日(新暦1868年1月1日)、兵庫港は正式に開港された。しかし、幕府は外国人との衝突(攘夷派による襲撃事件など)を懸念し、旧来の繁栄した兵庫港の町中ではなく、そこから東に数キロメートル離れた、当時は閑静な漁村であった神戸村に居留地を建設して実際の港湾施設を整備した。これが結果として、のちの国際港湾都市「神戸」の直接的なルーツとなり、名実ともに兵庫(神戸)は近代日本の玄関口として急速な発展を遂げることとなった。