新潟
【概説】
日米修好通商条約をはじめとする安政五カ国条約において、開港が定められた5港のうち唯一の日本海側の港。江戸時代を通じて北前船の最大級の寄港地として繁栄したが、河口港ゆえの土砂堆積による水深不足や幕末の政局混乱により、実際の開港は明治維新後まで遅れた。
日米修好通商条約と日本海側開港の背景
1858(安政5)年、大老の井伊直弼が勅許を得ないまま調印した日米修好通商条約において、神奈川(横浜)、長崎、箱館(函館)、兵庫(神戸)、そして新潟の5港を開港することが義務づけられた。太平洋側や九州、蝦夷地に加えて日本海側の新潟が選ばれたのは、江戸時代中期以降に発達した西廻り航路(北前船)の日本海側最大の拠点として、すでに膨大な物資(特に米)の集積地となっていたからである。
また、列強、特にロシアに対する防衛や東アジア海域における補給基地の確保という観点からも、日本海側に開港場を設けることは欧米諸国にとって極めて重要な意味を持っていた。
水深不足による開港の遅れと代替港問題
条約上、新潟は1860(安政7)年に開港される予定であったが、その実現は大きく遅れることとなった。最大の理由は、新潟港が信濃川と阿賀野川の河口に位置していたため、上流から流出する土砂が堆積し、大型の西洋船が進入・錨泊するのに十分な水深がなかったことである。
江戸幕府は土砂の浚渫(しゅんせつ)や港湾整備を試みたものの、技術的・財政的な困難に直面した。さらに、国内での攘夷運動の激化や幕末の政情不安が重なり、幕府は開港の延期を重ねざるを得なかった。この間、水深の深い佐渡の夷港(現・両津港)を新潟の補助港(代替港)として活用する案なども模索された。
明治維新と新潟開港の実現
最終的に新潟が正式に開港したのは、政権が明治新政府へと移行した後の1868(明治元)年11月19日(新暦では1869年1月1日)であった。これは、戊辰戦争において奥羽越列藩同盟に加わった新潟が、新政府軍との激しい戦闘(新潟上陸戦)の末に制圧され、新政府の直轄地となった直後のことであった。
開港後の新潟には外国領事館が設置され、洋風建築の税関(旧新潟税関庁舎として現存)などが整備された。しかし、近代化に伴い国内の交通網が日本海側の海上交通(北前船)から太平洋側の鉄道や大型蒸気船航路へとシフトしたため、新潟の貿易額は他の開港5港(特に横浜や神戸)に比べて大きく低迷し、本格的な近代港湾としての発展は明治後期の築港工事を待つこととなる。