金輸出再禁止
【概説】
1931年(昭和6年)12月、犬養毅内閣の大蔵大臣である高橋是清によって実施された、金の輸出を再び禁止する経済措置。これにより日本は金本位制から完全に離脱し、管理通貨制度へと移行した。深刻な昭和恐慌からの脱出と景気回復を図るための歴史的転換点となった政策である。
金解禁の失敗と昭和恐慌の深刻化
第一次世界大戦中、主要国は金の輸出を禁止して金本位制から離脱したが、戦後は順次復帰を果たしていた。日本も国際経済への復帰を目指していたが、関東大震災や昭和金融恐慌の影響により復帰が大幅に遅れていた。1930年(昭和5年)、浜口雄幸内閣の井上準之助大蔵大臣は、旧平価による金解禁(金輸出解禁)を断行した。しかし、折り悪く前年の1929年に発生した世界恐慌の影響が日本にも波及し、輸出の激減と国内物価の暴落を招き、日本経済は極めて深刻な昭和恐慌に陥った。
さらに、1931年(昭和6年)9月に満州事変が勃発し、同月にイギリスが金本位制から離脱すると、日本の金解禁維持も不可能になると見越した財閥などが猛烈な「ドル買い」を行った。これにより、日本の正貨(金)は大量に国外へと流出し、経済は壊滅的な打撃を受けることとなった。
犬養内閣の成立と高橋是清の決断
このような危機的状況の中、1931年12月に第2次若槻礼次郎内閣が総辞職し、立憲政友会総裁の犬養毅を首班とする内閣が成立した。大蔵大臣に起用された高橋是清は、就任当日にただちに金輸出再禁止を閣議決定し、実行に移した。これにより、わずか2年足らずで日本の金解禁政策は放棄されることとなった。
同時に銀行券の金兌換も停止されたことで、日本は通貨の発行量が保有する金の量に縛られる金本位制から、国家(中央銀行)が通貨供給量を調整・管理する管理通貨制度へと歴史的な転換を遂げたのである。
「高橋財政」の展開と国際的な摩擦
金輸出再禁止の直後から、外国為替相場において円は暴落し、急激な円安が進行した。高橋蔵相はこの円安を武器に綿織物などの輸出を急増させ、日本は世界の主要国に先駆けて恐慌からの脱出に成功した。しかし、この輸出の急増は、諸外国から不当な低賃金労働による「ソーシャル・ダンピング」であるとの強い批判を浴び、関税障壁の引き上げなど国際的な経済摩擦を引き起こす要因ともなった。
また、国内においては、高橋は日本銀行引受による赤字国債の発行という画期的な手法で財源を調達した。この資金を農村救済のための土木事業(時局匡救事業)や軍事費に充てる積極的な財政政策(高橋財政)を展開し、国内の有効需要を創出して景気回復を後押しした。
歴史的意義と軍部台頭への伏線
金輸出再禁止に始まる一連の経済政策は、後に体系化されるケインズ主義的なマクロ経済政策を先取りしたものであり、デフレ不況からの脱却に劇的な効果をもたらしたとして高く評価されている。
一方で、この政策による積極財政は軍事予算の膨張を可能にし、満州事変以降の軍部の台頭を経済面から支える結果を招いた。後にインフレの進行を懸念した高橋是清が、公債発行を漸減し軍事費の抑制を図ろうとしたところ、軍部の激しい反発を買い、1936年(昭和11年)の二・二六事件において暗殺されることとなる。金輸出再禁止は、どん底の日本経済を救済した救国的な措置であったと同時に、皮肉にも日本を戦時体制へと向かわせる道を切り開く転換点ともなったのである。