ベルリン封鎖事件 (べるりんふうさじけん)
【概説】
第二次世界大戦後の冷戦初期において、ソビエト連邦が西ベルリンへの陸上交通を全面的に遮断した事件。アメリカを中心とする西側陣営が空路による物資輸送で対抗し、東西対立の激化を象徴する冷戦最初の大規模な危機となった。
封鎖の背景と「通貨改革」をめぐる対立
第二次世界大戦で敗北したドイツ、およびその首都ベルリンは、連合国である米・英・仏・ソの4カ国によって共同占領されていた。しかし戦後、資本主義体制の維持と復興を急ぐ西側陣営と、社会主義体制の拡大を図るソ連との間で対立が深まっていった。その対立が決定的となったのが、1948年6月に西側占領地区で実施された通貨改革(B記号マルクの導入)である。独自の経済圏構築を目指す西側に対し、ソ連は東ドイツ地区の経済が混乱することを恐れて猛反発した。ソ連は西ベルリン(東ドイツ領内に孤立した西側の管理地区)へのすべての鉄道、道路、水路を遮断し、200万人以上の市民が生活する西ベルリンの封鎖に踏み切った。
空前の「大空輸」作戦と東西分裂の固定化
陸路を絶たれた西ベルリンを維持するため、アメリカを中心とする西側連合国は、空路による物資調達という前代未聞の「大空輸(バイプレーン作戦)」を敢行した。3本の空中回廊を利用し、食料、燃料、生活必需品を昼夜を問わずピストン輸送し続けた。この作戦はソ連の目論見を完全に覆し、1949年5月にソ連は封鎖を解除せざるを得なくなった。この事件の結果、同年中にドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)がそれぞれ建国され、ドイツの東西分裂が固定化した。さらに、西側の軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)の結成へとつながり、欧州における冷戦体制が確立することとなった。
日本への波及と占領政策の「逆コース」
欧州でのベルリン封鎖や、アジアにおける中国共産党の台頭といった冷戦の激化は、同時代の日本の占領政策に劇的な変化をもたらした。アメリカ(GHQ)は、日本を「民主化・非軍事化すべき敗戦国」から「東アジアにおける反共の砦・工場」へと位置づけを変更した。これにより、日本の経済自立を優先する「経済安定九原則」や「ドッジ・ライン」が導入され、労働運動の抑制やレッドパージ(共産主義者の追放)といった、いわゆる「逆コース」が本格化した。ベルリン封鎖という欧州の危機は、日本の戦後復興と主権回復(サンフランシスコ平和条約による単独講和)の方向性を決定づけるグローバルな契機でもあったのである。