コミンフォルム
【概説】
1947年にソ連を中心として結成された、ヨーロッパ諸国の共産党・労働者党による連絡・調整機関。アメリカの対欧援助計画「マーシャル=プラン」に対抗して組織され、東西冷戦の激化を背景に東側陣営の結束を図るとともに、日本の戦後占領期における社会運動や日本共産党の路線決定に決定的な影響を与えた。
冷戦の激化とコミンフォルムの結成
第二次世界大戦後の1947年、アメリカ合衆国は共産主義の封じ込めを狙った「トルーマン=ドクトリン」を発表し、続いて欧州復興援助計画であるマーシャル=プランを提唱した。これに対抗するため、ソ連のスターリン主導のもと、ソ連・東欧諸国およびフランス・イタリアなどの共産党代表が集まり、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)が結成された。
これは1943年に解散したコミンテルン(第3インターナショナル)に代わる、東側陣営の国際的な指導・調整機関であり、東西冷戦の本格化を象徴する出来事であった。コミンフォルムは各国の共産党に対してソ連の方針に沿った強硬な対米対決路線を要求し、これが日本を含むアジアの共産主義運動にも波及することとなった。
「コミンフォルム批判」と日本共産党の分裂
日本史においてコミンフォルムが極めて重要な意味を持つのは、1950年1月の「コミンフォルム批判」(野坂参三批判)である。当時、連合国軍(GHQ)の占領下にあった日本共産党は、徳田球一や野坂参三らの指導のもと、占領軍を「解放軍」と位置づけ、平和的な議会闘争を通じて社会主義革命を目指す「平和革命論」を掲げていた。
しかし、コミンフォルムはその機関紙において、この野坂の平和革命論を「アメリカ帝国主義を美化し、日本の人民を欺くもの」として激しく非難した。これに対し、日本共産党内部は激しく動揺した。批判を受け入れて急進的な武装闘争も辞さないとする宮本顕治らの「国際派」と、占領下の特殊事情を考慮して慎重な姿勢を取りつつも最終的に自己批判に追い込まれた徳田・野坂らの「所感派」に党は分裂し、深刻な党内抗争が展開されることとなった。
武装闘争路線への転換と「逆コース」の加速
コミンフォルム批判に屈する形で、主流派となった徳田らは北京に亡命政権的な機関を置き、1951年に「51年綱領」を採択して武装闘争路線(極左冒険主義)へと突き進んだ。彼らは「山村工作隊」や「中核自衛隊」などを組織し、各地で警察署襲撃や火炎瓶闘争などの暴力的抗争を引き起こした。
この過激な方針展開は、冷戦の激化(1950年の朝鮮戦争勃発)に伴い、日本を「防共の砦」として再軍備化させようとしていたGHQや日本政府にとって、共産党を弾圧する絶好の口実となった。GHQの指導のもと、官公庁や主要産業から共産主義者を追放するレッドパージ(赤色追放)が徹底され、日本共産党は合法的な政治活動の足場を一時的に喪失した。さらに、政府は治安維持のために破壊活動防止法(破防法)を制定するなど、戦後日本の占領政策が「民主化・非軍事化」から「逆コース(再軍備・保守化)」へと劇的にシフトする決定的な契機となった。