北進論 (ほくしんろん)
【概説】
満州国を足場とし、ソビエト社会主義共和国連邦を仮想敵国として中国大陸北部やシベリアへの進出を志向した近代日本の軍事・外交戦略。大日本帝国陸軍を中心に主張され、海軍が主導した東南アジアへの進出をめざす「南進論」と対立した。
陸軍の主導と対ソ「防共」の論理
近代日本において、陸軍は明治期の日露戦争以来、ロシア(のちのソ連)を最大の仮想敵国と位置づけていた。1931年の満州事変および翌年の満州国建国により、日本はソ連と長い国境線を接することとなり、国境防衛と共産主義の拡大(赤化)防止が陸軍の最優先課題となった。
この文脈において唱えられた「北進論」は、満州の産業開発を進めて防衛体制を固めつつ、軍備を拡張してソ連に備え、機を見てシベリアへ進出するというシナリオを描いていた。これは、石原莞爾らが提唱した「国防国家」の建設や、日独防共協定(1936年)に代表される外交的な反共連携とも深く結びつき、昭和初期の陸軍の基本方針となった。
「南進論」との対立とノモンハン事件での挫折
北進論は、南洋群島や東南アジア(南方)への進出を主張し、米英を仮想敵国とした海軍の南進論と激しく対立した。限られた国家予算や資源の配分、そして外交方針をめぐる陸海軍の主導権争いは、日本の国策決定を二分し、一貫した国家戦略の構築を阻害する要因となった。
北進論が大きな転機を迎えたのは、1939年のノモンハン事件である。満ソ国境での日ソ両軍による大規模な武力衝突において、日本陸軍(関東軍)は近代化されたソ連軍の重火器や機甲戦力に完敗を喫した。これにより陸軍内部でも武力による対ソ進出の困難さが強く認識され、同年の独ソ不可侵条約締結という外交的衝撃も重なって、日本の対ソ積極策は一時的な後退を余儀なくされた。
関特演から「南進」への最終的転換
1941年4月に日ソ中立条約が締結されたことで北進論は棚上げされたかに見えたが、同年6月に独ソ戦が勃発すると状況は一変した。ドイツの優勢に乗じてソ連を背後から攻撃すべきとする「北進」の主張が陸軍や一部の閣僚(松岡洋右外相ら)の間で再燃し、関東軍特種演習(関特演)と称する史上最大規模の動員を満州で展開した。
しかし、ソ連軍が極東で頑強な防備を維持したこと、また日本が直面していた日中戦争の泥沼化や、米英による「石油禁輸」をはじめとする経済制裁(ABCD包囲網)を打破するためには、南方資源地帯(特にオランダ領東インドの石油)の確保が不可欠となった。その結果、1941年7月の御前会議において国策は「南進」へと一本化され、同年12月の太平洋戦争突入にともない、北進論は完全に放棄されることとなった。