南進論
【概説】
明治期以降の日本において、東南アジアや太平洋方面への経済的・軍事的進出を重視した対外発展論。特に昭和期、ソ連を仮想敵国とする陸軍の「北進論」に対抗して海軍が主導し、のちに日本の対米英開戦(太平洋戦争)の引き金となった国家戦略である。
明治・大正期における「南進」の源流
明治初期、早くも小笠原諸島の領有や琉球処分などにより、日本の南洋への関心が高まった。明治中期には菅沼貞風や志賀重昂らによって、東南アジアや南洋諸島への貿易展開や移民を推奨する「南進論」が唱えられた。この時期の南進論は、主として平和的な経済進出や自由貿易の拡大を目的とした「民間主導」の性格が強かった。
第一次世界大戦が勃発すると、日本は参戦してドイツ領であった赤道以北の南洋諸島(ミクロネシア)を占領し、戦後に国際連盟の委任統治領として領有した。これにより、日本にとっての「南洋」は具体的な国家主権の及ぶ範囲となり、国策としての南進が現実味を帯びるようになった。
昭和初期の「北進論」との対立と国策化
昭和期に入り、世界恐慌後のブロック経済化や満洲事変の勃発により、日本の対外戦略は大きな転換期を迎えた。この際、対外進出の方向性を巡って、伝統的にロシア(ソ連)を仮想敵国として満洲やシベリアへの進出を主張する陸軍主導の「北進論」と、英米を仮想敵国とし東南アジアや太平洋の資源確保を目指す海軍主導の「南進論」が激しく対立した。
1939年のノモンハン事件で日本陸軍がソ連軍に大敗したこと、また欧州で第二次世界大戦が勃発し、フランスやオランダなど東南アジアに植民地を持つ本国がドイツに敗北したことで、アジアの「権力の空白」が生じた。これに乗じて、軍部や政府内では南進論が急速に支持を集め、1940年の「基本国策要綱」において「大東亜新秩序(のちの大東亜共栄圏)」の建設が謳われ、武力行使をも辞さない「武力南進」へと傾斜していった。
仏印進駐から太平洋戦争への破局
1940年9月、日本はフランスの降伏を受けて北部仏印(仏領インドシナ)進駐を強行し、翌1941年7月にはさらに南へと進む南部仏印進駐を行った。これは、南方資源地帯(蘭領東インドの石油など)の獲得と、蒋介石率いる重慶政府への援助ルート(援蒋ルート)を遮断することを目的とした、実質的な「武力南進」の開始であった。
しかし、この過激な南進はアメリカ、イギリス、中国、オランダ(ABCD包囲網)との対立を決定的なものにした。特にアメリカは、南部仏印進駐への制裁として在米日本資産の凍結および対日石油輸出の全面禁止を断行した。これによりエネルギー資源の大部分をアメリカに依存していた日本は窮地に陥り、「自存自衛」の名のもとに南方資源地帯の武力奪取を決断。1941年12月8日、マレー半島上陸と真珠湾攻撃を皮切りに、太平洋戦争(大東亜戦争)へ突入することとなった。