後期(縄文時代)

重要度
★★

後期

紀元前2000年頃〜前1000年頃

【概説】
縄文時代の6区分(草創期・早期・前期・中期・後期・晩期)における5番目の時期。世界的な気候寒冷化を背景に、それまで繁栄していた東日本の人口が激減し、代わって西日本への文化の普及と多様化が進んだ転換期である。

気候寒冷化と東日本社会の再編

縄文時代中期(紀元前3000年頃〜前2000年頃)は温暖な気候に恵まれ、特に東日本の落葉広葉樹林帯や豊かな汽水域を中心に、三内丸山遺跡に代表されるような大規模な集落が繁栄した。しかし、後期に入ると地球規模での気候寒冷化が始まり、海水面が低下(縄文海退)した。これにより、東日本の人々の主食であった堅果類(クリ、ドングリなど)や、河川を遡上するサケ・マスなどの自然資源が減少した。

食料資源の枯渇は、中期的な大集落の維持を不可能にした。東日本では人口が激減し、人々は少人数の小規模な集落に分散せざるを得なくなった。一方で、それまで人口密度の低かった西日本(近畿・中国・四国・九州地方)へと人口が移動し、西日本における定住化や文化的・社会的な発展が促される契機となった。この現象は、のちの弥生時代における西日本主導の農耕社会形成への伏線となった。

祭祀の高度化と配石遺構の出現

自然環境の過酷化に直面した縄文後期の人々は、社会の結束を維持し、生業の安定を祈るために精神文化(祭祀・儀礼)を高度に発達させた。その象徴的な遺構が、秋田県鹿角市にある大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)をはじめとする配石遺構(ストーンサークル)である。これらは、共同墓地であると同時に、太陽崇拝や祖先崇拝に関わる祭祀の場であったと考えられている。

また、祭祀用の道具も多様化した。煮炊き用とは異なる、液体を注ぐための注口土器(ちゅうこうどき)が作られ、呪術や儀礼に用いられた。土偶も中期までの平板なものから、より立体的で精緻な表現へと進化し、後の晩期に全盛を迎える遮光器土偶へとつながる過渡期を形成した。このように、物質的な豊かさが失われる中で、精神的な結合力を強めようとしたのが後期社会の特徴である。

生業の多様化と「磨消縄文」の流行

食料獲得の不確実性を克服するため、生業技術にも変化が見られた。従来の狩猟・採集に加え、低湿地を利用したマメ類(ツルマメやリョクトウなど)の原始的な栽培や、効率的な食料保存技術の発達が進んだ。また、海岸部では製塩活動が本格化し、塩を専業的に生産するための製塩土器が登場した。塩は内陸部との交易品となり、地域間ネットワークを維持する重要な役割を果たした。

この時代に用いられた縄文土器は、薄手で実用性に優れ、器種(皿、鉢、急須状の注口土器など)が多様化した。装飾面では、縄目を施した部分を削り残し、それ以外の部分を磨いて平らに仕上げる磨消縄文(すりけしじょうもん)という技法が全国的に流行した。この端正で洗練されたデザインの土器は、地域ごとのローカルな特色を持ちながらも、日本列島全体で一定の文化交流があったことを物語っている。

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