国策の基準
【概説】
1936年(昭和11年)8月に広田弘毅内閣のもとで決定された、近代日本における外交・国防の基本方針。軍部の台頭を背景に、陸軍が主張する大陸への「北進」と、海軍が主張する南方への「南進」を折衷・並行して進めることを定めた。この方針の決定により、日本は全方位的な軍拡と国際的孤立の道を突き進むこととなった。
軍部の政治的台頭と五相会議の復活
1936年2月に発生した二・二六事件は、日本の政治体制に決定的な変容をもたらした。事件後に組織された広田弘毅内閣に対し、陸軍は皇道派の粛清を進めつつも、政治への介入を一層強めていった。その象徴が、同年5月に復活した軍部大臣現役武官制である。これにより、軍部が内閣の存廃を左右する権力を再び握ることとなった。
このような状況下、政府と軍部の最高指導者による意志統一を図るため、首相、外相、蔵相、陸相、海相による五相会議が実質的な国策決定機関として機能し始める。同年8月7日、この五相会議において決定されたのが「国策の基準」であった。これは、それまでの協調外交から脱却し、軍部の要求を全面的に反映した国家意志の定式化であった。
「北進」と「南進」の妥協的並立とその矛盾
「国策の基準」の最大の特徴は、陸海軍それぞれの異なる戦略構想を、調整することなくそのまま両立させた点にある。当時、陸軍はソ連を最大の仮想敵国と見なし、満洲国の防衛強化と中国華北地方への浸透を図る北進論を主張していた。これに対し、海軍は英米との対抗を念頭に、天然資源の豊富な東南アジア地域への進出を目指す南進論を唱えていた。
本来、限られた国家予算と資源のもとでは、これら二つの戦略の一方を選択せざるを得ないはずであった。しかし、政治的主導権を欠く広田内閣は双方の要求を抑えることができず、「東亜大陸における帝国の地位確保」(陸軍の要求)と「南方海洋における発展」(海軍の要求)をいずれも「国策の基準」として併記した。この妥協的二本立て路線は、日本の国防方針に深刻な二重性と矛盾を抱え込ませることとなった。
全方位の敵対関係とアジア太平洋戦争への予兆
この方針は、対外的にはソ連、中国、さらにはイギリスやアメリカをも同時に潜在的敵国と規定することを意味していた。一国でこれら多方面の強国に対抗するため、政府は強力な軍備拡張を余儀なくされ、日本の国家財政は急速に軍事優先へと傾斜していった。また、経済の軍事化を支えるために、重要産業に対する国家の統制も急速に強化されることとなった。
「国策の基準」で示された華北への進出方針は、翌1937年(昭和12年)の日中戦争(盧溝橋事件)勃発へと直結した。さらに、南方進出の決定は、のちの1940年(昭和15年)における北部仏印進駐、そして1941年の太平洋戦争開戦へとつながる軍事行動の青写真となった。このように、「国策の基準」は日本が国際連盟脱退後の孤立を自ら固定化し、全面的な戦争へと突き進む決定的な大転換点となったのである。